戦争と我々 (一次通過作品)

 ある夜、私は新橋から銀座へ抜けようと薄暗い鈴蘭通りを歩いていた。その頃から俯いて歩く癖のあった私は、隣を歩いている妻の腹が前よりも大きくなっていることに気付いていた。黒いワンピースの麻の生地が臍に向かって緩やかに登って、臍を過ぎると足首まで垂直に垂れていた。何かに似ているとその時はただ不思議だったが、今思い出してみてやっと閃いた。あれは砲口に似ていたのだ。
  その日は雨後だった。先に見える三越の明かりが足元の水溜まりに映り始めた頃、
「ホテル行きましょうよ」と妻が私の腕を胸に引き寄せて誘惑してきた。閉店した紅茶屋のシャッター前にキスし合う男女がいたから、それに触発されたのだとすぐに分かった。
「何言ってるんだ」私は彼女の腹を見ながら言った。「もう八ヶ月じゃないか」
  実際それは思ってもない言い訳だった。私がセックスをしたくなかったのは、ただ疲れているからだった。私の望みはベッドに入って目を閉じ、平衡感覚を失いながら眠ることで、夢の中でも熟睡する私を見られれば尚良いと思うほどだった。
「だって最近してないじゃないの」
「そんな身体で出来るもんか」
「手なら肥大化してないわよ」彼女は自身の身体の変化を肥大化と呼んでいた。
「いいよ、産んでからで」
「顎だってまだまだ元気よ」
  切れかけた電飾の明かりが、妻の舌がずるずると動く頬の動きを卑猥に映し出していた。私は腕を振り解いて、それからしばらく黙っていた。
  その頃、私はずっと機嫌が悪かったのを憶えている。疲れていたのもそのせいだった。それは何年も仕事を一緒にやってきた佐々木にいきなり退職届を提出されたからだった。理由をきいて私は愕然とした。嘘をついているな、と懐疑的にさえなった。彼は義勇兵に自ら志願し、ウクライナに行きたいと言って辞表を書いてきたのだった。
 問題は仕事に大きな穴が出来てしまうことだった。副社長の退職は会社的にまずかった。株や、人事や、資産を彼に一任させていた。佐々木はウクライナ行きを申し訳なく思っていたらしいが、何度止めても辞職を撤回しなかった。ただ「すまない、すまない」を繰り返していた。そして決まってその次の言葉に「でも、」と命を引き合いに出すのだった。私は何度も止めたのだが、結局彼は音信不通になった。——失望されていたに違いない。
 鈴蘭通りが尽きて私たちは大通りに出ていた。車道を挟んだ向かいに和光と三越が見えた。季節柄、夜が長いせいもあってか人は沢山出ていて騒がしく、それがまた私の神経を逆撫でた。妻の白い手は私の腕に絡みついて、和光の方へと引っ張って行った。
 中は涼しかった。建物を支える四本の柱には様々な角度でタイルが埋め込まれ、天井から降りてくる金色の光を複雑に反射させていた。その柱の周囲にぐるりとショーケースが円を描いて、透明なガラスの中で時計がいくつも光っていた。私はそこでようやく安らぎを感じていた。Glashuette、IWC、PIAGET……。中でもPANERAIは不思議な魅力だった。佐々木だってこの中から躊躇いなく買うことが出来るくらいの金は持っていたはずだった。どうして金の無意味になる場所に行くのか私には理解できなかった。今までの人生は何のためだったのだ。企業を大きくするために奔走した時間は何だったのだ。そんなことを思った。
  妻が腹を重たそうに運びながら戻ってきた。気になった時計を試したいからと私を呼びに来たのだ。妻に手を引かれた。その時、「ギー」という大きい音がそこらじゅうから突然聞こえ出した。救急車の音をスロー再生したような音で、薄い刃物で背を撫でられるように不快だった。周囲の人間は一斉に動かなくなった。「ミサイル発射情報、ミサイル発射情報」と機械音声が二回繰り返した。Jアラートだ。
「なんだミサイルか」と私は藪から友人が出てきたような安堵を感じた。
「津波じゃないのね」と妻も安心したように言った。「で、こっちなんだけど」
  妻はまた歩き出した。周囲の人々も私たちと同じく、静止していた時が動き出すように普段通りへ戻っていった。
  そこでただ一人、葉を落とした晩秋の小さな木に似た老婆が顔中の穴を埴輪のように虚しく開きながらフロアの中を走り回っているのが視界に入ってきた。視線が高い位置でキョロキョロしていたから出口を探しているのだと分かった。やがて老婆は何人かの客の肩にぶつかりながらこちらへ走ってきた。出口は私たちの背後にあったのだ。ブラジャーを着けていないシルクのシャツの中で靴紐のように胸が揺れていた。妻は真紅のベルトのFRANCK MULLERを覗いていた。そこに老婆が突っ込んだ。
  私は、「うう」と唸って背中から落ちた老婆より、よろけて床に尻餅をついた妻より、その腹より、老婆の持っていた黒いトートバッグから蜜柑がおよそ五つ六つ、檸檬が一つ転がり落ちた光景に意識を持っていかれた。
  汚らわしい。グレーの絨毯の上に散乱した果実を見てそう思った。完璧な時計、完璧な人間達で作られた完璧な空間の中に、来ないミサイルに怯えるおいぼれと、薄汚い果実があるだけで、私は一気に不愉快になった。
  蜜柑は壁際にまとまっていた。一部分は緑色に変色して腐っており、ゴミのようだった。檸檬は私の足元に転がっていた。私はそれを拾い上げた。この重さ。檸檬は想像していたよりも随分軽かった。私はそれを思い切り出口へ放った。飛んで行った檸檬は歩道を超え、車道に飛び出すと、戦車のようにゴツゴツとしたベンツが踏み潰して行った。——
 私はその日の事を、佐々木の訃報が届いて思い出した。リサは今日で二歳になるらしい。

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