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存在について(2.思いやりと死)
『私、物件決めてきたから。』
突然、妹はそう言い放った。
母と妹と、私。旧びた賃貸アパートで3人暮らし。
青天の霹靂。
妹は続ける。
『お母さんに干渉されるの、いい加減鬱陶しいんだよね…。』
家族の反対を押し切り、1人で生活する。それは私が何年も燻ぶらせた挙句、やはり不可能だと判断し諦めたかつての願望だった。それを妹はいとも躊躇なく実現させたのだ。
『2人はもっと家賃の安い家でも探してそこに住んで。じゃあね。』
軽快なドアの音が、すっかり虚ろになった私の心を突き刺すように響いた。
ふと思う。
これまでの私の我慢は一体何だったのだろう。
出来ることなら、私も自立したかった。母の過干渉とメンタルケアから逃れたかった。独立心の強い妹と病気がちな母の間で板挟みになり、ふたりを慰め続ける役割から解放されたかった。
どうしようも無いので、安価な物件を探す。私はいわゆる「手帳持ち」で、普通の人が何とかこなせる物事に酷く手間がかかってしまう。収入も貯蓄も、自分一人が生活する分だけでギリギリだ。母を抱えながらのんびりと生活出来る余裕はない。今すぐここを出なければ。
そして途方に暮れる。
こじれた家族関係については、以前からあらゆる機関に相談していた。そして東奔西走した挙句、肝要な問題はどうにも出来ないことを覚ったのだ。
私が、この私が、母を引き受けなければ。
母と妹と私。互いが互いの足りないところを千切り合うことで成り立ってきた、血生臭い生活共同体。
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そも、人間の生活はそれぞれが自我を抑えることで成り立っている。多勢のために自分をほんの少し、殺すのだ。人の一生はこうした小さな死の連続である。
仏教曰く。「他者を思い遣る」とは、みずからと世界の境界線を外し、宇宙の果ての塵芥すらも自分事として捉え、その全体を慈しむに至る、と。
たとえば私が空に浮ぶ一塊の雲ならば、それは尽く解体されなければならない。
ふと見上げた夕暮れ。刻一刻と沈んでいく太陽が、次第に赤黒さを増していく。使い古された静脈血が一滴残らず絞り取られていくように、周辺の雲を広範囲にわたって痛々しく染め上げながら。やがて太陽は地平の底へと崩れていく。眩い光を雲に反射させ、そこにみずからの俤を託しつつ。
形を失い世界に融けていく。
思いやりとは、死とは、かくも融通無碍である。そこに「あなた」も「わたし」もあるものか。あるのは縁起だけ。この世は事事無碍法界(じじむげほっかい)なのだ。
ここで穏やかになれないならば、何の為に学んできたのだ。
事事無碍法界‥それぞれのものが自性(≒個性)を喪失しつつ、なおそれぞれとして存在している。そこでは、すべてのものが縁起により成立している。仏教の悟りにおける最上の世界相。
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想像力、健康、財力。妹と母と私にそれぞれ欠けていたもの。互いを千切り合い奪い合い、自らを埋め合わせることで辛うじて成立していた家族は、とうとう壊れてしまった。そうして私は千切られたまま、流れる血を止められずにいる。
仕方がない。
血の流れる、その痛みのままに生きるしか。
ただ愚直に、もがいて生きるのだ。
住む家を探して収入のあてを増やして、母を養わなくては。
上手く行ったら、またささやかな文章を書こう。
自分を勘定に入れてはいけない。(余計苦しくなるだけだから)
この事事無碍法界をわが赤黒い血で満遍に浸し、思いやりと小我の死に生きるのだ。
徹底的に窮め尽くされたあらゆる主義思想は、"真理"という一つ所に落ち合うというもの。慈悲を窮めた人間もまた自我を棄て、大海に融けてなくなるが如くに。
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