【書いてみた】短編「起点」【藤井】

鈴木は人を殺したことがない。

かつて鈴木の母親は不倫をしていた。鈴木が中学生の時、学校で授業を受けていたが体調が悪くなり早退した日があった。学校と家が近かったため、歩いて帰宅した。玄関を開けると見知らぬ靴が脱ぎ捨ててあり、奥の寝室からは自分の母親の喘ぎ声が聞こえてくる。

中学生の鈴木は何が起きているのか理解出来たが、理解したくない気持ちと視覚と聴覚に入ってくる受け入れ難い現実に一瞬で押しつぶされ、体調の悪さが増し、玄関でうずくまったのを大人になった今でもトラウマのように覚えている。

音が静かになり、恐らく果てたであろう母親と見知らぬ男が全裸のまま廊下へと歩いてきた。母親は廊下の壁に手をつき、自らの尻を男に向けたが、視界の隅にうずくまる人影を発見し悲鳴を上げた。悲鳴に驚いた男は、手に持っていたコンドームを落としながら、今からもう一度抱いてやろうと思っていた人妻の見る方向を見た。

そこからの展開は早かった。2人は玄関でうずくまって吐いているのが、この家の中学生の息子だとわかるやいなや脱ぎ捨ててあった服を着始めた。着替えながら母親は「何してるの!学校は!何で帰ってきたのよ!」と声を荒げている。うずくまり吐きながらも鈴木は「何してんだはこっちのセリフだよ。」と思いつつも、元から体調が悪かったこともあり身動きすら取れなかった。

母親の不倫相手の男は服を着て、そそくさと家を出ていこうとする。小走りになりながらも、「あとで連絡する」と鈴木の母親に言うと、側面にゲロのかかった革靴を一瞬ためらいながらも履き、帰って行った。


さっきまでうるさかった場所とは思えないほどの静けさが家には漂っている。鈴木も、頭の中で先程までの情報量の多さを処理しきれずパンクしていたが、静寂と共に次第に落ち着き始めていた。

そして、鈴木は何も言わなくなった母親に対して冷静にこう言った。

「玄関は僕が片付けておくよ。」


別にこれは気を使ったとか、現実逃避をしたとかではない。彼は誰よりも現実を受止めた上で思ったことを口に出したのだ。

そう、この時彼は頭の中で何かが壊れた。

それは、彼の母親もわかったし、何より彼自身もわかった。

立ち尽くす母親の横を彼は通り過ぎた。洗面所から掃除用具を取り、玄関へ向かい、元通りになるよう掃除を始めた。

彼は掃除を終え、洗面所に用具を戻した。そして未だ立ち尽くす母親に落ちていたコンドームを渡しながら、

「これは母さんが片付けてね。」

と言い、自分の部屋へと向かった。

母親は部屋へと向かう息子の背中を見ながらうなだれた。


その後、鈴木は地元でも一二を争う程、偏差値の高い高校へと進学し、あれよあれよという間に都内の某有名私立大学へと進学した。そのまま大学でも4年間必死に勉強をし、有名な広告代理店へと就職をした。


鈴木は今、30歳になった。そしてふと、自分の人生を振り返っている。母親の不倫現場を目撃した日。両親が離婚した日。大学進学まで面倒を見てくれていた父親が隠していた多額の借金を残し自殺した日。

全ての思い出の中で殺意が芽生えていた。

実の親なのに良い思い出が出てこない。

あの日、頭の中で何かが壊れたが、翌日からもいつもと変わらぬ顔で学校へ行った。しかし、変わらないと思っていたのは鈴木本人だけだったようでその日を境に友達は減っていき気味悪がられる日々が続いた。

高校へ入っても友達は出来ず、いわゆる天然と言われるようなクラスの女子に「鈴木くんは何でいつも笑っているの?」と聞かれ、何も答えずにいると周りの女子たちが「キモイから話しかけない方がいいよ。」「口は笑ってるのに目が死んでるとかヤバすぎ。」「生きた人間じゃなくてロボットなんじゃね?」と囃し立て、馬鹿にし、遠ざかっていった。

この時も殺意が芽生えた。何なら常に殺してやろうと、カバンの中にナイフを入れていた。

大学進学をし、東京で一人暮らしをしていたとき。都心の街中で、母親に会った。あの時、隣にいた男とは別の男と子供を連れて歩いていた。目が合った。鈴木は笑いながら歩み寄った。この時ばかりは心からの笑顔が溢れ出た。理由は分からない。例え最悪な思いをしていようと実の母親ということには変わりなく、久しぶりだとか、大きくなったねだとか親らしい言葉をかけてもらいたかったのかもしれない。今までの人生を狂わした原因が母親にあるとしても、心のどこかで許し、またいつか話がしたいと思っていたのかもしれない。

それは鈴木本人にもわからない。だが、嬉しくなってしまい歩み寄ったのだ。

そして「久しぶり。元気だった?」と鈴木は声をかけた。

母親は驚いた顔をしたあと、真顔になり「二度と話しかけないで。」そう鈴木に言った。

鈴木は理解できなかった。自分が何かしたか?何かされたのは自分の方じゃないのか?何故、俺が悪者扱いをされている。忌まわしき記憶を鮮明に残した張本人に話しかけるなと言われる筋合いはないはず。この女、やっぱり最悪だ。殺してやる。絶対に殺してやる。知らぬ男もその子供も共に殺してやる。

そう心の中で言い続けた。


やはり良い思い出はない。最悪な人生だった。勉強をしていい企業に務めても誰も褒めてくれはしなかったし、家族も友達もいない。楽しい思い出なんて忘れてしまった。そう思いながら鈴木は笑った。


そして鈴木はビルから飛び降りた。遺書に「ついに殺してやった。」と残し。

下には、鈴木が忘れるはずのない見知った顔の男が歩いていた。

鈴木は人を殺したことがない。






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