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成瀬は天下を取りにいくらしいが、ぼくはそれほど期待していない。

小説の帯文は往々にして過大に書かれるものだ。商業的に成功させるために書かれることが多いからだろう。「この帯文は秀逸だな」と思わせられるものから、「はいはい、テンプレテンプレ……」と厭になってしまうものもある。

帯に書かれた「かつてなく最高の主人公、現る!」の文字。「成瀬になりたくて、なれなかった。だから芸人になった。」のコメントを読んで、きっとまっすぐな主人公がドロッとした学校生活に風を吹き込むような物語だと推察できた。”天下を取る”の言葉からもスカッとした読後感を想像させた。

しかしだ。ぼくは読み終えてとてもつらくなった。帯文にこれほど同感できないのは久し振りだった。

これは「成瀬は天下を取りにいく」著:宮下未奈の読書感想文である。ほかの誰かの感想を否定するものではない。だからこそ書かずにいられなかったぼくの感想も許されてほしい。ごめんな。

滅びゆく大津と”主人公” 成瀬あかり

物語は滋賀県大津市の中学2年生 成瀬が、幼馴染の島崎に「この夏を西武大津店に捧げる」という宣言したところから始まる。成瀬は文武両道でかつ誠実で実直な主人公だ。思いつくことを、やりたいことをやってしまう、そしてできてしまう。ひとの感情には少し鈍感な天才として語られ始める。島崎はそんな成瀬の一生を傍で見届けたいと願う同級生の凡人だ。(そんな成瀬に付き合っているだけで十分、凡ではないと思うが……)

ありがとう西武大津店
膳所から来ました
階段は走らない
線がつながる
レッツゴーミシガン
ときめき江州音頭

の6編が収録されている。成瀬は主人公のように見えるが、「ありがとう西武大津店」「膳所から来ました」は島崎、「階段は走らない」は稲枝、「線がつながる」は大貫、「レッツゴーミシガン」は西浦視点で語られている。

しかし、「階段は走らない」を除けば物語の中心にはいつも成瀬がいる。成瀬は実直さと実行力で周囲を惹きつけてしまう。

頭がよくて、運動ができて、さらさらのストレートヘアーだから、疎まれたり陰口を言われたりもする。しかし、それさえも正面突破してしまう。バカ真面目すぎて抜けている感じが愛おしい、魅力的な”主人公”だ。

地域住民の思い出が詰まった西武大津店の閉店という舞台設定。これだけでノスタルジックかつ、「失って気づく大きさ」「それでも生活は続く」のような”エモい”メッセージができそうだ。移ろってゆくもののなかで、超然とした成瀬という”主人公”は燦然と輝いて見える。頼もしい。

しかし、唯一成瀬視点で語られる「ときめき江州音頭」によって、その盤石さが揺れる。島崎の東京行きに動揺する成瀬の姿は、年相応の少女に見えた。

君は成瀬になりたいか

勉強も運動もできて、容姿も整っている。行動力があって、努力ができる。きっと成瀬はこのまま200歳まで生きるし、デパートも建てる。成瀬は見ていて飽きない。

賢くなりたい。
運動ができるようになりたい。
行動力がほしい。
やりたいことがほしい。
普通に生きていれば、ひとつくらいは当てはまる願望なのではないだろうか。成瀬は全部持っている。

では、成瀬あかりになりたいだろうか。
作中では誰もそうなりたいとは語っていない。
成績で2位の大貫ですら、「成瀬に勝ちたい」のであり、成瀬になりたい訳ではない。能力としては、成瀬と同等かそれ以上を望んでいても。

なぜだろうか。「ときめき江州音頭」から、成瀬に勝ちたくても成瀬になりたい訳ではない理由がわかるように思う。

成瀬は決まったルーティンを過ごしてきた。しかし、島崎の引越しを聞いて、当然にこなしてきた日課が薄氷の上に成り立っていたものだと気づく。成瀬には強烈な動機がない。だからこそ、成瀬にとって1番ブレないはずであった島崎の引越しは成瀬に大きな影響を与えた。

他の物語でも、縁の下の力持ちや、圧倒的な存在が消えるとその上に成り立っていたものが崩れて行くことがある。

澤村大地が退場した烏野高校(ハイキュー!!)や、オールマイトを失ったヒーロー社会(僕のヒーローアカデミア)、墨村繁守が外れた四師方陣(結界師)がそうだ。

成瀬にとっては島崎の存在がその役割を果たしていた。そして、読者のぼくらにとっては成瀬の存在がそれを担っていた。だからこそ、成瀬がブレる「ときめき江州音頭」はぼくに強い動揺を与えた。

知らず知らずのうちに、ぼくは成瀬に期待してしまっていた。成瀬は成瀬のままで、天下を取るところまでいくのだ。ぼくは、そうはなれないけれど、頑張ってほしいなぁなんて思っていた。

島崎の無責任

そういえば、この間"Twitter"で地域で活躍するプレーヤーや学生に期待をかけすぎるために、失敗しづらい環境があり、疲弊してしまうという投稿を読んだ。

昨年度まで地方でなんとか頑張ろうとしてきた自負があるのだが、ごもっともな指摘だと思ったのだ。地方はそもそも人口の母数が少ない。だからこそ、目立った存在をその実力の如何を吟味せずに注目してしまう。

その結果、大きすぎる期待と注目が、ゆっくり伸びる実力を潰してしまう。気づくとそれまで自由に感じていたフィールドが動きづらいものになってしまう。「やっぱやめた」が難しい。じわじわと苦しくなる。

話を小説に戻す。

ぼくらは成瀬に、勝手な期待をかけてしまっている。はなから見届けることを目指した島崎も同罪だ。「期待してるよ!」は前向きな拒絶だ。「あなたと一緒に頑張ることはしないけれど、その活躍を見て、ぼくらを喜ばせてね! 」と捉えてしまう。

島崎は「ときめき江州音頭」で、3年間伸ばすと決めたはずの髪の毛を大貫の意見で切った成瀬に対し「ほら吹き」と言う。

成瀬は確かにやり遂げていない自分に納得するが、ぼくは怒っていた。それは島崎の無責任でしかない。実行した成瀬を批評してよいはずがない。

卒業写真

町で見かけたとき、何も言えなかった
卒業写真の面影がそのままだったから
人ごみに流されて変わってゆく私を
あなたは時々遠くでしかって

あなたは私の青春そのもの

と歌ったのは荒井由実だが、ぼくには「人ごみに流されて変わってゆく」島崎が大津に残った成瀬に「面影がそのまま」であってほしいという勝手なノスタルジーを託しているように思う。

ふぅ。

しかし、成瀬も島崎もまだ高校生。ゼゼカラは解散しないし、きっとこの先にぼくの勝手な怒りなどひらりとかわした穏やかな将来もあるはすだ。

吉嶺マサルと稲枝敬太の「階段は走らない」は、そんな穏やかな将来を予感させるものだった。地元に残った吉嶺と方々から集まる同級生たちの関係はリアルで豊かなものだ。

ただ、さらなる絶望がここにあるとぼくは考えている。吉嶺たちが集まれたきっかけは"西武大津店閉業"であった。44年ものあいだ営業を続け、多くの大津市民の思い出の場所だった。

"西武大津店閉業"ほどのビッグニュースが成瀬たちの生きる将来にあるだろうか。なかなか難しいのではないか。この先、成瀬は無責任な期待を背負い続け、町を出て行く同級生たちを見送りながら大津の"成瀬あかり"でいることを強いられてしまう。思いが詰まった西武はもうない。

読後になぜ苦しくなったのか

  1. 成瀬は周囲の無責任な期待を背負う

  2. 成瀬は期待に無自覚

  3. 成瀬の生活は島崎に精神的に支えられていた

  4. 島崎は引っ越す

  5. みんなが集まり当時を振り返るきっかけになる西武大津店はもうない

この先の成瀬は"無責任な期待"に対しても、正面から"成瀬らしく"突破していくことが求められる。吉嶺もきっと頑張るが、確実に先に死ぬ。救いは年1のときめき夏祭りでゼゼカラの活動だ。

成瀬は西武大津店レベルのデパートを建てるか、ときめき夏祭りを西武大津店と肩を並べるほどのイベントに成長させるしかない。途方もない"ほら"かもしれないが、西武大津店閉業と同等のビッグニュースは、"成瀬百貨店開業"しかない。そうでもないとこの地域のニュースが全国にいる同郷の民には届くことはないだろう。

道のりは遠く険しい。
さらに逃げることはできない。
逃げることは、成瀬らしくないから。
決して"取りたい天下"ではないとしても。

ロマン

この作品はフィクションです。
実際の個人や団体とは関係ありません。

と、注意書きをされても、感情を揺さぶられてしまったのは自分の経験と成瀬が重なって見えたからだろう。驕りかもしれないが。

「期待してるよ、頑張ってね」と言われるのは嬉しい。しかし、同時に寂しさもある。一緒に頑張ってくれる訳ではないからだ。だから、この物語はぼくにとって帯分ほど"無責任"に前向きには捉えられない。

だが、頑張らない理由にはならない。

ぼくの好きなバンドにSUPER BEAVERという現実的で正論のいい歌詞を書くバンドがある。ロマンという曲の歌詞を書かせてほしい。

それぞれで頑張って
また会おう
一緒に頑張ろうはなんかちがうって
ずっと思っている
親愛なるあなたへ
心を込めてがんばれ

頑張ろうぜ成瀬。俺も頑張る。

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