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【小説】今が底だから大丈夫と言いたい

 風が吹く。ゆっくり、だけど目に分かるほどに雲が流れて、溶けていく。隣かどこかの洗濯物や、土の匂いや草の匂い。電車の音や、信号機の音、家を建てる音もする。遠くに近くに、運ばれてくる音も匂いも懐かしい。
 この町は夕方ホームに降りると何かとおいしそうな匂いがして、帰ってきたなあという気持ちになる。電車にはしばらく乗っていないが、窓を開ければいつでも「この町の匂い」がする。
 悪くない。生まれ育った町とは違う、だけど何故か沁みるような懐かしさのある町だと思う。人を拒まない。そんな印象を受けて、ここに住むことを決めたのはいつかの今頃だっただろうか。

 「町になりたい」と思うことがある。誰も拒まない優しい町になりたい。どうしてだろうか。
 等しく優しい自分でいたい。誰か個人を愛するのではなく、できることなら何人もの自分を持って、一人ひとりの相手を満たすだけの愛を持つ存在になりたい。相手の全てを満たすことは望んでいないのだろうな。では何を満たそうと望むのか。それが簡単に分かればよいのだが。

 昨年の、今頃だったか。それとももう少し夏に近い時期だっただろうか。外を歩くのに、人々の強い緊張を感じてひどく心が乱れたことがあった。
 私にできることが分からない。そう思って堪らなかった。
 癒したかった。世の中に傷ついている人々の心を何とか癒したかった。しかし方法が分からない。
 それどころか私は、緊張しながら、苦労を感じながら、不安を抱えながら、それでも日々を暮らしている町の人の姿に触れては、自分が癒されると感じるのだ。どんなに厳しい世の中でも、みんながなんとか生きていこうとしている。時に生きていくことができなくなる人もいて、途方もなく虚しくなるけれど。しかし彼らもまた、自分の命に対する選択をしたのだと思う。それもまた「生きていたい」という気持ちの表れであることに違いはなく、皆等しく生きていたいのだと思う。

 私は知りたい。どうしてみんなそんなに生きていけるの?
 触れたい。そこにある生命力に触れたい。教えてほしい。生きていこうと思えるその、源を知りたい。教えてほしい。

 あなたの楽しいことは何ですか?
 何があなたを生かすのですか?

 こうして生きていられるよ、何とかやっているよ。言葉ではなくて、姿から、感じられると嬉しくなる。安心する。私も誰かを安心させてあげられる存在でありたい。しかし私は、悲しい現実から自分を隔てなければ、「生きていたい」という気持ちを保てない。みんなの暮らしにこんなにも癒してもらっておいて、何故私はそこに加わることができないのだろう。
 「役に立つ」ことが何もできない。風を感じて、雲を眺めて、土を想って、心に火を灯す。水分を保って、血の巡りをよくして、頭を休めて。そうして取り戻した元気で、私も暮らしを回して行かなければと思うのに。あったと思った元気が空っぽになってしまう。どうしてだろう。私もみんなを助けたい。
 みんな、大丈夫なのかもしれない。私が心配しなくても、自然と生きていく選択ができるのかもしれない。助けてもらいたいのは私なのかもしれない。だけど、どうしたらいいのかが分からない。「助けを求める」ってどういうことだ?誰に、何を?根本的な、生きるためのイメージを持つことができない。自分にできることを、提示することができない。
 人にしてもらう代わりに、自分に差し出せるものが無い。

 教えてください。
 私はあなたのために何ができるでしょうか。
 私は何のためにここにいるのでしょうか。

 大人は私に、「一人で生きていけるようにしろ」と教えた。「人のためになることをしろ」と教えた。「困った時に助けを求める方法」を教えるものはいなかった。
 自分がしてもらいたいことを、人にしてみようとすればいいのだろうか。
 「本当に困っている人が誰なのか分からない」。「私ができることをしてあげられる相手が誰なのか分からない」。とにかく人に近づいて見てみようとしたことなら何度もある。私はぼろぼろになって、もう同じことは多分できない。
 しかしそれなら私のことも、外から見た人に、どんな助けが必要かなんて簡単には分からないのだろう。

 こんな独り言のような、己との対話にすぎないものを晒すことを、どうか責めないでほしい。それだけで随分救われる。とにかく私は社会から責められることが怖くて仕方のない人間のようである。失うものはもう何もないのだから、何だってやればいいと言う自分も確かに存在しているのに不思議なものだ。
 これを小説とするのは偽るようで申し訳なくもあるのだが、私にはまだ「創作」という安全な柵が必要であるように思う。「誰か助けてください」と自分の言葉で発することはまだできそうにない。
 何故かは分かっている部分もある。「本当に誰かに助けてもらう必要があるのかがまだ分からない」からだ。自分でなんとかできるかもしれないことに、人の手を借りることが申し訳なくて仕方がないのだ。「私には何も返せない」という考えは傲慢そのものだ。人はそんなことを求めて人を助けるのではない。しかし「そんなことを求めて人を助けない」ことを人に強いたくない。

 「自分が何をどうしたいのか」言葉にできなければ求めてはいけない、という呪いにかかっている。何がどうかなんか分からないけれど私は、人と関わって優しい気持ちで生きていたいよ。私が私でいるだけで、誰かの心を癒して生きていたい。私にはそれができるだけの心が確かにある気がしているのだ。
 これがただの思い上がりであるならどうか責めないでほしい。思い上がりでなく本当にその力が私にあるのならば、「早くそれを為せ」とむしろ責めてほしいのだ。

 私と一緒にいると楽しいと思います。きっと、元気が出ると思います。

 明日以降の私のために、必要だから書いてしまおう。恥ずかしいのは今日だけだろう。
 果たして最後まで読んでくれる人がいるのか分からないけれど、この文章に関しては、随分と情緒の安定しないことを書くものだと、笑ってもらえれば幸いかと思います。
 それはともかくとして、聞いてくれたあなたは、本当にありがとう。



恐れ入ります。「まだない」です。 ここまで読んでくださって、ありがとうございます。 サポート、ありがとうございます。本当に嬉しいです。 続けてゆくことがお返しの意味になれば、と思います。 わたしのnoteを開いてくれてありがとう。 また見てもらえるよう、がんばります。