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映画『泥の子と狭い家の物語』公開日記 〜原作に忠実か否か〜

2月9日も『泥の子と狭い家の物語』をご覧頂きありがとうございました。第七藝術劇場に井之頭(先生&住職)役の湯浅崇さんをお迎えして舞台挨拶をさせて頂き、お客さまの質問にもお答えしました。


【お客さまからのご質問】
「舞台演劇が原作だということですが、原作には忠実ですか?」


物語の大筋は忠実だと思いますが、描きたいテーマや表現のトーンなどは違っているかも知れません。それは、僕がこの原作を意図的に変えようとしたのではなく、僕はこの原作になった演劇を原作者の狙いと違うように見た、感じた、捉えたということだと思います。

原作のオカモト國ヒコさんが映画の封切りに合わせて寄せてくれたコメントを紹介します。

「母と娘問題はずいぶん前から日本の重要なテーマです。呪いをかけあう女子問題、と言ってもいいです。姉妹のような母娘、あるいは、友達みたいなママというのがトレンドになった時期が過去にありました。一見健全そうに見えるあれですらママの強すぎる自意識に巻き込まれた娘さんが数年後にどんな地獄を経験するかと思うと恐ろしいです。そんな、どう立ち回ろうと初手から破滅しか待っていない母と娘という生き地獄の中で、それでも小豆ちゃんはママを魔女から取り戻す為に頑張って欲しい。魔女を家に引き入れたのがママだったとしても。ママの生きる地獄のことが永久に理解できなかったとしても。完成おめでとうございます。」

先日、オカモトさんにお話を聞く機会があったんですが、氏の作品はいつも母と娘を描くんだそうです。だからこの『泥の子と狭い家の物語』も小豆と康子の話なんですね。

一方僕はというと、母と娘を描きたかった訳ではありません。一応小豆が主役ではありますが特に小豆を描いたのではなく、小豆を中心とした家族であり関係する人たちを描いた群像劇に近いものだと考えています。だから出演者ほぼ全てが重要な役割を担っているし、それぞれが生き生きと個性的に動いているのだと思います。従って、見る人によって感情移入する相手が違うし、映画から感じること、受け取るメッセージが違うんだと思います。

それともうひとつ、もっと物理的な理由で原作と違うところがあります。
原作はもっとファンタジーだし、スペクタクルだし、アドベンチャー要素が入っています。ある意味エンターテインメント感が強いと言えるかも知れません。演劇はある意味とても自由で、役者がここは宇宙空間だといえば見る人は宇宙だと思って見てくれます。巨人が襲って来たといえば巨人が襲って来たんだなとハラハラしてくれることでしょう。しかし、映画の場合はなかなかそうはいきません。やはりそこにはリアリティが必要だし、実現可能な脚本にしないといけません。だからファンタジーと現実の匙加減にはとても気を使って表現しています。そういう意味ではオリジナルの脚本(戯曲)を大きく変更しているかも知れませんね。というような話をしました。


11日土曜日は休映日です、お気をつけください。
次は12日19:30から。主役の織田ひまりちゃんと僕とで舞台挨拶させていただきます。みなさまどうぞお越しください。

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