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静寂桜


 少しぼんやりしている間に、花の盛りが訪れていた。
 春に置いていかれてしまったような気がして、慌てて霞のような花々を眺める。
 
 宝塚に住んでいた頃、私はよく京都まで足を伸ばした。
 家を出てから1時間半ほども電車に乗ればもう、時代劇のセットのような街並みがある。
 「そうだ、ちょっと京都へ行こう。」という気軽さで、なんとも贅沢な休日を過ごしたものだ。

 京都には、絶景と呼べる桜の名所がそこここにある。
 でも、お花見をしたことはなかった。
 なんといっても、物凄い人ごみなのだ。
 観光地らしい活気にわくわくすることもあるけれど、花の色をゆっくり眺めるには少し賑やかすぎる。
 ただ一度、木漏れ日と蝉の声が降りしきる京の都で、忘れられない桜を見た。
 
 
 三十三間堂にほど近い場所。
 表通りの喧騒を少し離れた静けさの中に、智積院がある。
 幾度も焼失しては再建されたこの寺院の敷地には、鐘楼や庭園が雅な風情を見せている。
 あざやかな五色幕を眺めつつ、小道の奥の収蔵庫へ向かった。
 国宝の保存のため明かりをおさえた室内は、夏の陽光が満ちる外界とは全く別世界の暗がりだった。
 さほど大きくはない障壁画の金地から、桜の樹がこちらへ枝を伸ばしていた。
 薄暗い部屋の中で、発光しているのかと目を疑うほど明るい桜花。
 野山に根を張る樹木の、うねるような息吹が際立っていた。
 春の盛りを楽しんでいる、桜たちの姿。

 25歳でこれほどの桜図を描き切った久蔵は、翌年26歳でこの世を去った。
 短い生を終える寸前の春、若者の瑞々しい心に舞い降りた花弁はこんな色をしていたのか。
 じっと凝視すると溶けてしまいそうなほど、あわい。
 白く、丸く、八重に咲いて。
 「短命の画家が遺した儚い絵」という悲壮感などまるでなく、底抜けに可愛らしい花弁は無邪気に踊っていた。
 久蔵の生涯を通り過ぎた桜の季節、その回数はあまりにも少ない。
 

 桜図の隣には、久蔵の父である長谷川等伯が描いた楓図がある。
 息子の死後に描き上げたという楓は、ごつごつと古びた幹から深緑の枝葉を広げている。
 あの子が、もう見ることはない楓の樹。
 ひと筆、ひと筆に溢れてやまない悲しみを、等伯はどうして呑み込んでいたのだろう。
 孤独に耐えるかのようにたたずむ楓の根本には、秋の野草が小さな花を咲かせている。
 ここにも新しい命が芽吹き、やがて季節は変わりゆくのだ。
 桜と楓は、古都の一室で親子のように寄り添う。
 長い長い年月、そうして四季を巡っている。

 
 
 意匠を凝らした智積院の庭園は、池の水をわざと少し濁らせてあるという。
 まるで、お庭と地続きのようだ。
 お坊さんが一人、池に落ちたことがありますと、お寺の方が説明していた。

 私は、静かなお花見が好きだ。
 思いがけない春の嵐に桜が早々と散ってしまったら、再びここを訪れよう。
 お坊さんが池に落ちない限り、桜と静寂があるから。






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