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私の珈琲には角砂糖をふたつ

 「珈琲か紅茶はいかがですか。」
 ときかれると、私は必ず紅茶と答える。
 5歳で初めて飲んだ時から、ずっと紅茶派を貫いている。
 けれどその一方で棄てがたいのは、珈琲への一途な憧れだ。
 珈琲を愛するひとは皆、大人びて見える。
 とっくに成人している身で言うのもおかしな話だが、私にとって珈琲は「大人の嗜み」だ。
 あたたかみある色合い、甘やかな風味で心を和ませてくれる紅茶に対し、珈琲はずっと切れ味が鋭い。
 味も香りも濃厚で、えも言われぬ迫力がある。
 だからこそ、挑むにはなかなか勇気がいるのだ。

 誰かから珈琲を贈られると、ちょっとどきどきする。
 せっかく頂いたのに飲めないから残念だ、などとは思わない。
 私って珈琲が似合うと思ってもらえたのかな、と嬉しくなるのだ。
 そのプレゼントは私も味わうし、もしも余れば大の珈琲好きである父が喜んでかっさらってくれる。

 お芝居で、壊れたコーヒーメーカーをなんとかしようと一人で奮闘する事務員を演じたことがある。
 ロサンゼルスの愉快な探偵事務所で巻き起こる事件にラブロマンス、大人の人間模様を描いた粋な作品だったが、私は始めから終わりまでコーヒーメーカーのことだけを考えている役柄だった。
 だから私も、お稽古や公演中はひたすらコーヒーメーカーのことを考えていた。
 行きつけのカフェ、シズクコーヒーロースターさん(珈琲を飲まない常連客を受け入れてくれる優しいお店)にますます入り浸った。
 お芝居の勉強を口実に、整頓されたキッチンを見学したり、イタリア製の素晴らしいコーヒーメーカーを見せてもらったりとやりたい放題であった。
 頭の中には、昭和の名曲「一杯のコーヒーから」のラブリーな唄声が繰り返し流れていた。
 珈琲を唄った曲は、どれも濃密な印象を含んで耳に残る気がする。
 小島麻由美さんの「トルココーヒー」も、有無を言わさず心をしびれさせる。

 飲めない珈琲のことを考え続けた結果、父へのお誕生日プレゼントにコーヒーメーカーを買って贈った。
 私は役の心情により近づき、父は自宅で美味しい珈琲が飲める。
 我ながら、誠に良い贈り物であった。


 一度、本気で珈琲派への転身を試みたことがあった。
 もう7年ほども前に、イタリアのローマへ旅に出た時のことである。
 旅の目標は、『珈琲を飲めるようになろう』。
 珈琲文化が根付いているローマで、紅茶ばかりをオーダーするなんてカッコ悪い。
 ローマの街並みにふさわしく小慣れた仕草でコーヒーカップに口をつける、そんな自分を夢見ていた。
 いざ訪れたローマでは、いたる所で人々が珈琲を楽しんでいた。
 石畳の小路で、薔薇の花咲く窓辺で、手描きの看板の奥にある小さなカフェのテラスで。
 気さくなイタリア人に混じり、私は恐る恐るその深い褐色の飲み物に手を伸ばした。
 大道芸人や噴水の飛沫、古い教会の塔を眺めながら味わったその苦味は、なんと豊潤だったことか。
「カフェラッテ、マッキアート。リキュールを入れたりアイスにしたり。飲み方は人それぞれさ。」
 立ち飲みのバールで出会ったおじさんは、私のために簡単な英語で教えてくれた。
「君の好きなように飲んだらいいよ。」
 彼は、そう言って私にウィンクした。
 白いデミタスに注がれた濃厚なエスプレッソに、信じ難い量のお砂糖を入れながら。


 どれくらい、苦い思いをするだろうか。
 私の人生は角砂糖のように甘くはないので、色んな種類の苦さを味わうことになるだろう。何度も、何度も。
 苦さとは、痛みとも悲しみとも違う味わいだ。
 文字通り、苦しい記憶が心に積み重なる。
 それでも、こんな香り高き苦味なら、経験してみるのも悪くはない。
 そう思わせてくれたのが、私が出会った珈琲だ。
 (かっこいいこと言ってるけど、ただ味覚が子供なのだ。わさびもからしも食べられない。)

 今でも、私は紅茶派だ。
 隣のテーブルから珈琲の香りが流れてくると、必死に背伸びしていたイタリア旅行を思い出す。
 コーヒーカップから立ち昇るのは、あたたかな風。
 あの冴え渡る青空と石造りの家々、夕刻のナヴォーナ広場で抱きあう恋人たちの面影。

 時には、苦さを味わおう。
 それがあまりに濃いのなら、珈琲が溢れるほどお砂糖を入れてしまえばいい。
 人生の喜びを謳いあげるローマの人々が教えてくれたその飲み物は、こっくりとした自由の香りを漂わせて、いつでも私の手元に差し出されている。
   

読んでくださり、本当に有難うございました。 あなたとの、この出会いを大切に思います。 これからも宜しくお願いします!