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赫月夜行

 

 春の夜。友達の家に届け物をするため、ひとりで出掛けた。
 折しも翌日は月が満ちる時、おまけにスーパームーンだというから少しわくわくしていた。
 外へ出て夜空を見上げた私は、ぎょっとした。暗い空に、大きすぎる真っ赤な月があった。
 なんだか、ただごとじゃない。
 私は足早に歩き出した。

 風はやみ、不思議なほど静かだった。
 大通りを行き交う車、小道にぽつぽつと見える人影。
 頭上の月に怯えているひとなど、誰もいない。
 私は、いつもと変わらない夜だと思おうとする。
 街路樹の向こう、塀と塀の隙間から、大きな月がこちらを覗き込んでいる。
 その視線から逃れるように、私はにわかに小走りになる。

 あれほど赤い月なのに、月光はどうして赤くはないのだろう。
 私の足元を照らす月の光はあまりにも透き通っていて、なぜだか胸が締め付けられる。

 音楽、絵画、童話。ひとは様々なものに月の姿を描いてきた。
 美しく幻想的な月は、その光であらゆる生き物を癒す。
 私も、月を見るのが好きだ。
 硬質な優しさを帯びた月明かりに照らされると、全身が洗われるような気がする。
 でも、今夜のお月様はちょっと違う。
 私は恐る恐る、もう一度夜空を見上げた。
 ああ、あれはいけない。あんなに赤くて大きくては、とても月とは思えない。
 それはまるで、腐乱した苺の果実。  
細隙灯顕微鏡の中に映る、傷ついた眼球。

 昔、満月になると女の首筋に噛みつきたくなると言ったひとがいた。
 今思うと、狼男と吸血鬼のハイブリッドだったのだろうか。
 月の光がひとを狂わせる話は、多く語り継がれてきた。
 今夜の月、いったい何を企んでいるの。

 友達の家に着いた。
 今は、語らいの時間は過ごせない。
 玄関先に届け物を置き、出てきた友達と離れた場所で二言三言会話をした。  「ここに来るまで、お月様にずーっと見られてたよ。」
 そう言うと、友達も空を見上げ、言った。
「今もこっち見てるね。」
 二人を、月が睨んでいた。

 帰路につく。ひとりで歩きつつ、月の二面性について思い巡らせる。
 生き物たちの安らかな眠りを守る月、人間の理性を剥ぎ取る月。
 月はふたつの顔を持ち、そのふたつともが本当の顔だ。
 暗黒の夜を穏やかに照らしてくれる、銀色のベールを被った月の女神。
 彼女だって、そんなことやってられない夜もある。
 ふしだらに、汚れて、誰かに蔑まれたい夜。
 あのひとだって、いつもと変わらない微笑みを浮かべていた。
 満月の明かりに眼がくらむ夜。打ち捨てられた銀色のベールが絡みつく。
「ねえ、噛ませて?」
 足が、もつれる。

 月と目が合わないように、ようやく家へ逃げ込んだ。
 今夜のお月見はおしまいだ。
 やがて、あっけなく朝に霧散してしまう月。
 充血した眼球は瞼に閉ざされ、眠りにつく。
 そして明日の夜には、きっと別人のような顔をして清らかな月光を降らせてくれるのだろう。
 私はカーテンを閉めて息をつき、あたたかいお茶をいれた。

 弄月。   遊ぶつもりが遊ばれて




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