FROG PARTY
家の近くに、田んぼがあった。
宝塚市の住宅街、広さは家一軒分くらいの小さな田だ。
そこには街中とは思えない、鮮やかな自然の気配があった。
稲の赤ちゃんがそよそよと風に揺れたり、見惚れるほど豊かな実りを迎えたりと、季節の流れを感じさせてくれる場所だった。
梅雨の時季を迎えると、田んぼからは蛙の唄声が聞こえてくる。
それはまさしく大合唱!!
あの有名な、可愛らしい童謡など搔き消される勢いだ。
げろげろ輪唱している暇もない、大変な騒々しさである。
その家に住んでから初めて迎えた6月は、それが何の音か分からなかったほどだ。
東京出身だからといって都会人ぶるつもりは全くないのだが、私がそれまで知っていた蛙の鳴き声をはるかに超える音量だったのだ。
夜の帰り道、田んぼの横を歩く。
わあわあ、わあわあ鳴いていた蛙たちは、私の気配を察知してぴたりと鳴き止む。
いいのに。鳴いていればいいのに。
そう思っても、彼らは必ず息を殺す。
人間の接近に気づかず鳴き続けて仲間に注意される蛙は、一匹もいない。
なんて凄いことだと、いつも地味に感動する。
こういう時、私ならば皆の協調を乱したくなり空気を読まず鳴いてみるところだが、動物の世界では死に繋がる行為だ。
私のように愚かな蛙など、田んぼにはいない。
重ねて、凄いことだと感動する。
雨の降る季節の間中、蛙は皆で鳴き続ける。
そして私はある日、そういえば蛙の声が聞こえないことに気付く。
見上げた空には、ようやく太陽が顔を出していた。
田んぼの蛙たちは、一体どこへ行ったのだろう。
あんなに沢山の声が聞こえていたのに。
大勢いると思っていたけど、彼らはほんとうは何匹いたのだろう。
今はどこにいるのだろうか。
人生に満ちていたはずの唄声が、突然静まり返ることがある。
皆、この田んぼから立ち去ってしまう、行き先も告げずに。
ニューヨーク5番街にあるアパートで、夜通し続くパーティー。
笑い合う男女、その知り合い、知り合いの知り合いが集う。
この夜の主役である青年は、世間が考えつく全てにおいて満たされている。
窓枠によじ昇れば星にさえ手が届くと思っていた、キング。
永く華やかな喧騒のさなか、彼はふいに気付くのだ。
友人、パトロン、同僚、恋人、携帯電話の向こう側…全ての登場人物が、今を通り過ぎていくと。
友達という肩書の人々で溢れかえっている、このマントルピース付きの部屋は、ある日すっからかんになるだろう。
足元の床が消えるような、唐突な不安。
彼の震える指先から、グラスが滑り落ちる。
飛び散った破片を拾ってくれるボウイも、もう明日にはいないのだ。
蛙の声を聴いて人生の孤独を憂うなど、いささか大袈裟というものだ。
蛙だって、そこそこ適当に生きている。
死んでしまった子もいるだろうが、大半は散り散りになって生き延びている筈だ。
案外田んぼの近くにいて、のんびり暮らしているのかも知れない。
彼らは、ああ昔、大勢の仲間と鳴き喚いた日々もあったなあと、田んぼでの暮らしを思い出すのだ。
あの頃は若かった。ただただ皆で集まって騒いだものだ。まあそれが青春よお、お前にもわかる時が来るさ、などと訥々と語っておたまじゃくしから煙たがられたりするのだろう。
雨の終わりに鳴き止んだ蛙たちはどうなるのか。
蛙の生態とか、時季ごとの成長過程とか、生物学的に調べれば幾らでも分かることだと思う。
でも、何となく知りたくない。
知らずに、私は思い描く。
蛙は皆、元気でやっている。どこかで大声を張り上げている。
そして次の年も、田んぼには蛙の大合唱が響き渡り近隣の住民を悩ませるのだ。その次も、次の年も。
さあキング、パーティーを続けろ。
終わりが迫る夜、いつか君を置き去りにする友人や恋人と踊り明かせ。
孤独についてなど、すっからかんの部屋で泣きながら考えればいい。
鳴かなくなっても、ここにいる。
ずっと、そばにいるよ。
そんな蛙もいるから。
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