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【旅行】【歴史探訪】岡山、倉敷を巡る

 先日、友人のいる岡山県は倉敷へ遠征した。

 片道4時間の旅。倉敷に入ったのは正午頃。
以前にも一度来たことがある。以前から思っていたのだが倉敷の美観には目を見張るものがある。しかし、そのことは他の多くのライターが感想をしたためているだろう。

 なので、僕が感じた疑問とその謎に迫っていこうと思う。

 1)「倉敷」がなぜ、ここまで発展したのか?(岡山県第二位の都市)
県庁所在地であり、岡山城という立派な城を有する岡山市と隣接している倉敷市。岡山市のベットタウンとするには、岡山市がベットタウンを抱えるほどに栄えていると思えない。

 2)倉敷や岡山市近郊には何故、水路が多いのか?
この水路をあるライターは「人喰い水路」と記している。日に1人はこの用水路に落ちているという。また、この地域には「用水路に落ちることは恥」という謎の感性があると。

 この2つの謎を解明するために倉敷という場所を詳しく調べていこうと思う。

 倉敷市 人口47000人 
 倉敷、真備、玉島、水島、児島、船穂の6区画に大分される。

倉敷市役所HPより

 個人的に目を引くのは、真備(マキビ)地区。
 これは日本史を高校で選択していた人なら聞き覚えがありませんか?

 そう!吉備真備(きびの まきび)。奈良時代の公卿、学者。ですね。

 23歳の頃、阿部仲麻呂などと共に遣唐使として唐は長安へ留学、猛勉強の末、現地で名を上げる。40歳で帰国。持ち帰った知識を基に天皇からの信頼を得て、公卿としての地位を高めていく。孝謙上皇とその側近「道鏡」を排除しようとした藤原仲麻呂が起こした争い(藤原仲麻呂の乱)では、上皇軍の指揮官として唐で学んだ知識を駆使して、藤原仲麻呂を倒す。その後、天皇の寵愛を受けた道鏡が台頭。道鏡は次第に天皇の座を狙うようになる。これを阻止したのは、真備ではないかと言われている。右大臣まで出世し、81歳でその生涯を終える。

を輩出した地であることから、この地名がつけられたそうな。

 話を戻します。
 倉敷や岡山市近郊は、源平合戦のうち、1183年の水島・藤戸合戦に見られるように児島の北方は瀬戸内海の一部だった。つまり海だったようですね。
 しかし、倉敷市のど真ん中を縦に裂くように流れる川、高梁川が運んだ土石の影響で、その海は遠浅であったようです。当時はこの海を「阿智海」「阿智潟」と言われていたのだとか。海から離れた美観地区の真ん中付近に鎮座する阿智神社が、海の神を祀っているのもこれが理由なのではないでしょうか?
 わかりやすい画像がありましたので、無断で引用いたします。

http://www.kcv.ne.jp/~sspm571/rsanpo2/dai04wa/index.htm より引用させていただきました

 この画像からも分かるように、水島や玉島、船穂のあたりは海の中だったようですね。このことからもなんとなく、玉島、水島、児島、船穂あたりの地名の理由が推測できそうです。

 そして、岡山といえば!
 吉備団子?いやいや。
 桃太郎?ノンノン。
 ジーンズ?NO!!
 晴れの国?本当かよそれ?

 天正10年(1582)の当時信長の配下であった秀吉による高松城の水攻めですね。これはNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で痺れるような描写がなされていましたね。語ります。

 天下布武を進める織田信長は、羽柴秀吉を中国攻めへ向かわせる。徒党を組まず、特段土地の拡充を欲することもせず、しかし一方で誰かの下に就くことを良しとしない。強固に守りを敷き、信長の天下統一をのらりくらりと阻む毛利。これを攻めるため。

 毛利の忠臣、清水宗治が守る高松城。高松城は、四方を泥のような田んぼに囲まれた自然の要害。ひとまず秀吉は、3万の軍勢を基に高松城を含めた付近7城のうち5つを次々に落城させる。そして残るはほぼ孤立状態となった高松城。

 高松城の兵力5000。秀吉の3万を以てしても容易には落ちない。日を増すごとに広島の毛利総軍の出陣の可能性が増し、次第に秀吉も焦りを隠せなくなる。

 ここで、秀吉軍の天才軍師黒田官兵衛(当時は孝高)が
「泥田のせいで兵が足元を掬われて上手く進めぬ。そこに矢などを射掛けられいたずらに兵の消耗が激しい。ならばいっそこの泥田を利用して攻めてはいかがでしょうか」と、水攻めを献策する。

 この策を採用した秀吉。そして官兵衛は、わずか12日で足守川に全長3キロ高さ7メートルにも及ぶ堤防を築きあげた。
 堰を切った水は、梅雨の雨も手伝い、たちまち高松城を湖面にポツンと浮かぶ孤城としてしまう。かくして官兵衛の策はなり、秀吉の懸念通り2日後毛利輝元を総大将とした毛利総軍(吉川元春、小早川隆景など)4万が到着。
 この湖に浮かぶ高松城を挟んで両者睨み合いが始まり、戦況はこう着状態となる。
 そして、毛利側外交僧の安国寺恵瓊と、秀吉側軍師官兵衛とで講和が始まる。秀吉の要望は「領土割譲、高松城城主清水宗治の首」であり、恵瓊は頑なにこれを拒む。

 そして講和の難航する6月2日。「本能寺の変」が起こる。
 この知らせを聞いた秀吉は、大いに取り乱す。しかし、ここで官兵衛が秀吉へ駆け寄り一言「殿にご武運が巡って来られましたぞ」と。
 この一言で、一気に天下へ名乗りにあげることを意識し始めた秀吉(同時に、官兵衛を恐れるようにも)。今すぐにでも、京へとって返し、光秀を討つことで自身が天下人になろうと。
 そのためには、目の前の毛利をどうにかしなければならない。まず、信長の死が毛利に伝われば講和はおろか、毛利は「敵は混乱の渦中にあり」と判断し一気に講和を破棄し、攻勢へ打って出る可能性があった。
・毛利に信長の死がバレること。
・同じく信長の家臣で富山にて上杉軍と攻防をしている柴田勝家に光秀の首を奪われること。
これらは時間の問題。一刻の猶予もないと判断した秀吉と官兵衛は、信長の死を秘めつつ「領土割譲」を取り下げ、「高松城主清水宗治の切腹を引き換えに城兵5000を助ける」というかなり毛利へ譲歩した講和案を持ちかける。
 これを聞いた清水宗治は6月4日、城から小舟で漕ぎ出し、両軍75000の兵が見守る中
「浮世をば 今こそ渡れ もののふの 名を高松の 苔に残して」と詠み、兄の月清入道と共に毛利への義理を貫いて切腹する。この切腹には秀吉も感嘆し「宗治は武士の鏡だ」とし、手厚く葬らせ、石塔を建てさせたという。宗治、享年47歳。

 切腹を見届けた秀吉は、6日のうちには馬を返して光秀打倒のため大急ぎで京都の天王山へ向かう。これが有名な「中国大返し(備中大返し)」である。
 また、光秀と秀吉が天下をかけて戦った山﨑の戦いにおいて、舞台となったのが天王山で、今でも勝敗を決する大きな場面などを「天王山」というのは、これに由来する。

 さてその後、高松落城の後。岡山城を居城としていた(冷徹無比と名高い)宇喜田直家の次男、宇喜田秀家が備中を納めていくこととなる。
 秀家は,宇喜多堤を築き,児島湾の海水の浸入を防いだ。東高梁川沿いに堤が築かれ、それによりこの地方の新田開発が始まり、元和(1615~1624)から寛文(1661~1673)にかけて倉敷・玉島周辺の島々は陸続きになっていった。
という。

 その後、寛永19年(1642)から倉敷一帯は幕府直轄領(天領)となった。
備中国南部は綿・菜種などの商品作物栽培が盛んになり,延享3年(1746)倉敷村に幕府支配の拠点となる代官陣屋が置かれた。陣屋の新築により倉敷の町は活気を見せ,多くの大地主や豪商の屋敷が軒を連ねるようになった。

 備中国の玉島湊は,繰綿の出荷を中心に繁栄し,瀬戸内諸国はもとより,九州や北陸の北前船などと取引を行った。

 近代産業の先駆けとして明治14年(1881)に玉島紡績所が誕生,15年には下村紡績,続いて22年には大原孝四郎らによって大規模な倉敷紡績所が開業した。その後,大原孫三郎は倉敷紡績社長として職場を改革するとともに,地域の文化・福祉の向上に大きな足跡を残した。(美観地区内の大原美術館は本当にすごいと思う)

 明治24年には山陽鉄道が開通,大正年間には14カ年の歳月を要した高梁川の大改修が完成,また大正14年(1925)には伯備線が開通し,倉敷発展の基盤となった。
 太平洋戦争勃発の昭和16年(1941),海軍の要請で三菱重工が高梁川廃川地で航空機製作所の建設に着手,そのころからこのあたりを水島と呼ぶようになった。(にも関わらず、当時の米軍が倉敷に空爆を仕掛けなかったのは、大原美術館などに名画が貯蔵されていたからだ。とも言われている)

 倉敷・児島・玉島の旧3市は地域発展のため昭和42年2月1日大合併,ここに現在の倉敷市が新たに誕生。昭和46年・47年と相次いで庄村・茶屋町を合併,平成17年(2005)8月には船穂町・真備町を合併した。


 はい。お察しの通り。途中から僕、記事を書くことに飽きちゃいました
 なので後半の…まぁ。宇喜田が出てきたあたりですかね。ここら辺から倉敷市のHPからまんまコピペしています
 コピペの部分は読点が「、」ではなく「,」となっているので分かりやすいですね。

 大河ドラマ軍師官兵衛が大好きだった僕にとって、中国大返しをめぐるくだりは熱くなっちゃうんです。(僕の思い込みや勘違いもかなりあると思いますので、上記記事は細かいことを気にせずニュアンスで読んでください。)
 一方で、近代史はあまり興味ないんですよね…

 さて!

 以上のことから本題である2つの疑問。
1)「倉敷」がなぜ、ここまで発展したのか?
2)倉敷や岡山市近郊には何故、水路が多いのか?
 お分かりいただけたのではないでしょうか?

「倉敷」が発展した理由。それは

・宇喜田氏の働きで、海が陸に変わりかなり大きな貿易拠点となった。
・幕府の天領となって大名屋敷が立ち並んで発展した。
・大原さんの働きで紡績業(糸から繊維を紡ぐ産業)が栄え、同時に同人のコレクションが米国からの空襲を遠ざけた。

から!

「倉敷や岡山市近郊に水路が多い」理由は

・宇喜田氏が海を陸に変えたから。その理由は、農地のため。決して宅地のためではなかった。しかし、工業地帯へ変貌していく中で農地が宅地に変わっていった。だから、住宅地の道路沿いには、もれなく用水路がある。
・水攻めされた清水宗治を信仰する岡山県民は、水中にいることを嫌がる。大義のため湖上で孤立した高松城もしくは清水宗治に対して、ドジで用水路に落ちた自分を非常に恥に思う。同時に高松城も宗治も柵に囲われてなどいなかったから。という理由で、行政もいまだにこの用水路に何ら対策をせずにいる。

から!!!


 や〜非常に歴史ロマンあふれる街ではないですか!!

 歴史を知れば、色々と見えてくるものもありますね!
 ではでは。また。

PS:先ほども記載しましたが、上記記事において私は、まるで歴史上の出来事を子細に調べたかのような書き方をしています。しかし、多くはネットからの引用であったり、以前に見た大河ドラマから得た薄い知識をもとに記載したものです。史実と異なることや、岡山県民の方が不快に思う箇所もあるかと思います。申し訳ありません。

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