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”理想の奥さん”という呪縛

今日も私は理想の奥さんになれなかった。

28歳になる誕生日を迎えた今、自宅から離れたホテルで一人過ごしている。最近ほんの小さなことで夫と揉める日があってなんとなく1人になる時間が欲しかった。

結婚して一年がたち、自分の中の理想の奥さん像と程遠い現実に時々悩む。いつもニコニコしていて元気で優しくて…自分の母のような奥さんになりたかった。

そんな理想とは裏腹に私は毎日小言を言う。捨てずに置かれたティッシュ、脱ぎ捨てたパジャマ、昨日から放置されたままの洗い物。気になる、言いたくないのに言ってしまう。夫はあまり人の気持ちが読めるタイプではないので、ハッキリ言わないと伝わらない。あぁまた言ってしまったと自己肯定感が下がり家の空気も悪くなる負のスパイラル。


やっとこの生活に慣れ私の小言も減った頃、今日はいつもより少しこじらせてしまった。普段こんなことで人に相談しない自分も、夜中に親友に弱音を吐いてしまう。

友人から一言ハッキリ「期待しすぎなんじゃない?」と。なんでも期待しすぎるから裏切られた時にショック受けちゃって腹が立つのかもよ。と言われ思わずグサっときた。

そうか、どうやらわたしは理想の奥さん像と共に理想の夫像を作り上げていたらしい。奥さんはいつも笑顔であるべき、優しく穏やかであるべき、という理想と共に夫は奥さんの気持ちを察して寄り添うべき、寄り添って欲しいと考えていた。この”○○であるべき”という思考が私も夫も苦しめてるらしい。

電話しながら、「期待現実=幸福感」という定義を思い出した。期待すればするほど、現実とのギャップで幸せになれない。理想の奥さん像だけでなく、理想の人生像として自分の学歴も仕事も、こうであるべき、という自分勝手な概念に囚われ、そのギャップに毎日苦しむのだ。もちろん、理想を高くすることは、努力を促し、人生を充実させる意味を与えることでもあるのだけど。それでも、良い意味で期待しすぎないということが時に人を救う。それは自分だけでなく他人に対しても同じだろう。


久しぶりの一人の時間をできるだけ良い時間にしようと手にとった本「愛するということ」の一説にもこんな文章があった。

聖書に表現されている「汝のごとく汝の隣人を愛せ」という考え方の裏にあるのは、自分自身の個性を尊重し、自分自身を愛し、理解することは、他人を尊重し、愛し、理解することとは切り離せないという考えである。自分自身を愛することと他人を愛することとは、不可分の関係にあるのだ。
尊重とは、他人がその人らしく成長発展してゆくように気づかうことである。私は、愛する人が、私のためにではなく、その人自身のために、その人なりのやり方で、成長していってほしいと願う。誰かを愛するとき、私はその人と一体感を味わうが、あくまでありのままのその人と一体化するのであって、その人を、私の自由になるような一個の対象にするわけではない。

「愛するということ」に、人を愛するためには、自己のナルシズムから脱却しなければならないと書かれていた。ここでいうナルシズムは自分以外の他者を理想とし、そこに憧れ美しい自分を追い求める人をいう。そして他者からの賞賛を期待し、他人に好かれ、よく思われたいと考える人は、目の前の相手のあるがままを認めることができない。

つまり自分のあるがままを愛せない人は、他人のあるがままを愛せない。この一説が、今日の私の生きるヒントになった気がした。

さ、明日は笑顔で家に帰ろう。そういえば今夜中に飲んだコンビニの味噌汁がいつもより数倍美味しく感じた。(気がした)

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