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【詩作りの悩み】先生のチクリ
「文学」と「作家」への道(41)
◇これが最後の受講か!?
ずーっと無職が続いており、勤めに出ない日々が1年になる。
退職するまでの数年は地下鉄に揺られて、職場に行き、そこにいること自体が仕事みたいな状態だった。それでも、外に出ることで詩を書く材料、気分になれたものだが、無職の日々は詩心を湧かせないもので、詩作は低調なままである。
で、近々仕事が決まり、それが土曜日もあるため、土曜日の詩講座には行けなくなる…と思っていたのだが、その仕事がダメになりそうで7月以降もカルチャーセンターには通いそうだ。
そんな気分できのうは参加し、提出したのは前夜アップした「紙の新聞」である。
提出用の作品は、こちらnoteにアップしたものでなくそれ用に書くようにしているのだが、昨日は朝、新聞を眺めながら、これで行こう―と思って字にした。
◇先生はやや厳しめの感想
「ちょっと暴れすぎ」と先生は指摘した。
「朝刊の話題を拾って作品にするのはいいんだけど、そこに自分の心の様子を差し入れるようにすれば詩が深くなる」とのアドバイスをいただく。
まあ、おっしゃるとおりである。
毎度まいど、やっつけで書いているような詩ばかりであるのはお見通しなのだ。
「現代詩」というものの多くが、言葉のサラダである。言葉と言葉が混じりあわないのが良しとされていないか。あるいは言葉を練ってねってわからなくなるまでいじっていないか―。
それが僕の考えである。
僕の場合は、時間をかけて何度も読み直し、推敲を重ね…というのをしないし、できないのである。
ぱぱっと書いている。
そうして、3年半ほどで1400を超える、数だけはたくさん詩を書いた、書けた。
練ってねって、「現代詩」に寄せたような町谷東光の詩は…きっとできないと思う。
トップ写真は、カルチャーセンターの後に都庁舎でやっているプロジェクションマッピングのゴジラである。
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