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 【詩の教室】にて

「文学」と「作家」への道(47)

◇詩は読むより書く方になっちゃう

東京の東部に住んでいるが、7月から月に1度参加する詩の集まりの会場は地下鉄で30分ほど西に行ったカフェで開催されている。
同じ地下鉄の沿線で7月から働くようになり、きのうあった集まりは仕事(土曜も営業。時々出勤する)を終えてから向かった。

先月あった集まりの様子と同様に今回も進行。

各人の提出作はクラウドに上げられており、それを前回はプリントアウトして持って行ったが、今回はプリントせず、スマホで読んだ。
やっぱり紙に印刷されてないとダメ。中身が沁みてこない、頭に入らないのである。
29編の詩の中で共感したものは3編ほど。
優れた詩、よくできたものはいくつもあったが、自分の気持ちが共振するものがどれだけあったろうか。

先生は、他の人の詩もよく読んで何を感じたか、他の人とどう感じ方が違うか―といった点に意識を払い、詩を磨いてほしい、といったことをおっしゃった。
そのとおりである。

詩を読み、書きだしたのは2020年暮れからである。ようやく4年たつかどうかという身だ。最初の1-2年はいろいろ読んでいたが、最近は読まなくなった。詩集を借りてきたりするがあまり読まない。詩の雑誌も買わなくなったし、図書館でチェックすることもない。

他の詩に感動したり、影響を受けることより、自分の感情を詩という形にすることが目的で、それを優先してしまう。
当然、自分の詩は磨かれない。

そういうことである。

◇初期の詩のほうが出来がよい

きのうの集まりに合わせて提出した詩は「下町の絶品ナポリタン」
noteにアップしたのは3年7カ月も前だ。
現在までについた💛は65個。僕がアップした詩作では一番数が多い。
この詩をいくらか削り、改行を詰めたりして提出したが、結構長いものになった。

先生からは丁寧で的確な批評をプリントしたものでもらった。
曰く「語り口がなめらかなので 長い詩ですが無理なく読み通せます 読みやすいというのは 間違いなくよい点だと思います」

とまず好意的に評価していただいた。
自分の詩に限らず、文章をつづる際の最重要点は、わかりやすく書くということ。
詩でも小説でも、評論、新聞記事でも、戻って読み返して意図を読み取らせるような文章はダメなのだ。※自分も推敲せずに書きっぱなしだとそうなってしまうけど※

先生は「なんでもない感じ方を 詩に書こうとすることが いいなと思うのです」
と指摘してくださる一方、「ただ ナポリタンができあがる間のことをここまで長く書く必要はないのでは」との意見もいただく。

もうちょっと「詩の勉強」をしながら、書きたいものを書いてゆく…さ。

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