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「落ちましたよ」

ポロリと 安っぽいトートバッグから
ビニール袋に入った
黄色のプラスティックスプーンがひとつ
転げ落ちた

朝の通勤電車
その主である女は
ぼくの隣に座り
スマホをいじり
落ちたことに 気づかない

「落ちましたよ」

ぼくは言わない
軽い音を立て
落ちたプラスティックスプーンのことなど
隣の女と同じに
どうでもよいことなのだ
ひとつのビニール袋に入った
プラスティックスプーンは
街頭で風に吹かれる
紙くずと同じ
どうでもよいものだ

「落ちましたよ」
の一言をぼくが発したとして
スマホに熱中する女が顔を上げ
「ありがとうございまーす」
キラキラー

目を輝かすわけもない

朝の冷たい空気が漂う
通勤電車で
女が可憐な子であれば
ぼくはその一言を発するための
エネルギーを惜しまないだろう

だが
その床に転がった
プラスティックスプーンを
この 隣の女が受け取ったとして
何も起こりはしないだろう

そんなことを数秒考えていたら
向かい側に座る男が
体と腕を伸ばし
プラスティックスプーンを
拾い上げ 女に渡した

女は
「ありがとうございまーす」
キラキラー
などと応じることなく
うん とも声を発せず
プラスティックスプーンを受け取り
小さく会釈するだけだった

小さな善行などしなくてよい

ぼくは何気を装いながら
女の顔を見た――


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