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紫式部日記(一) —それっぽく現代語訳

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それっぽく現代語訳しただけです。
最低限事実関係はずれないようにはしましたが、多少の脚色はしています。
訳も様々なものを調べながらできるだけ気をつけていますが、その微妙な言葉のニュアンスを考証的に厳密に現代語訳しているわけではないので予めご了承ください。


 秋らしさが深くなってくるのにつれて、土御門殿の様子は、言葉に表せないほどに美しくある。庭にある池のあたりや、そこに水を引き入れるための小川あたりの梢や植物たちは、みな、めいめいに色づき、見渡す限りの空も、夕の色に染まり風情であり、それに引き立てられて、彰子様の安産を祈願する絶え間無い読経の声にも、風情を感じているようです。
 次第に風も涼しくなり始め、小川から絶えることのない水の響きは、夜を通して読経の声と重なり合って聞こえます。
 彰子様にも、近くでお支えしている人々が、何とないお話をするのを、彰子様がお聞きになりつつ、ご体調が優れないであろうに、なんでもないようなご様子で振る舞われるお姿などが、今更ながら言うまでもなく素敵なのですが、悲しみの多いこの世の慰めには、このような彰子様にこそ、探し求めてでもお仕えするべきであったのだと、いつもの沈んでいる心を打ち替え、たとえようもないほどに全ての憂鬱を忘れられるのも、一方では妙なものです。

訳註
◯土御門殿 —— 藤原道長邸。藤原道長は、彰子の父。
        彰子は出産のために、親元に帰っていました。
        まあ、宮中からは近いのですが。
◯池に水を入れるための小川 ——遣水のこと。


少し後半がわかりにくいです。

状況を整理しておきます。
①前提として、紫式部は、この頃、夫を亡くした悲しみがあったようです。
②彰子様は、身籠っており、体調があまり良くありませんでした。その中でも、周りに悟られないように普段通りに振る舞っていたみたいです。
③紫式部は、気丈に振る舞う彰子を見て感動しながらも、普段はネガティブな気持ちなのに、少子のことになると、それが忘れられてしまう自分に少し疑問のような、違和感のようなものを感じているというところです。



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