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史実と物語

紫乃羽衣

少し前に、というより、おそらくこれから毎週話題になるであろう史実と物語について少し触れておきたいと思う。

これは、史学と文学の性質の違いが大きく関与しているのでもあるけれど、正直、創作に史学の云々を持ち込まれてもという気持ちはある。制作サイドから前例がないくらい「フィクションましましで!」とアナウンスもされているので。

ただ、そうは言っても文学だから史実を蔑ろにするのだろうと言われるのは癪であるから、ここのところを詳しく書いておきたい。

実は、この問題は和歌と共通したところがあるように思う。
『毎月抄』というとっても有名な歌論書がある。書いた人は、藤原定家さん。偉業の連続すぎて何をあげれば良いのやらという感じです。一番有名なのは、小倉百人一首でしょうか。さらには、新古今和歌集の撰者でもあると。そして、お父さんは、かの有名な俊成ですね。俊成は平家物語の「忠度都落ち」にて、和歌のお師匠さんとして出てきた方です。
実は、これを書くきっかけになった光る君へとも関わりがあるのですが、それはまた今度。

さて、本題に戻って、和歌の考え方に「心と詞」というものがある。
簡単に噛み砕けば、内容と言葉そのもの、くらいに捉えて構わない。
これの関係性について、定家は毎月抄の中では次のようにしている。

所詮心と詞とを兼ねたらむをよき歌と申すべし。

なんというか、どっちが私の書いた絵だと思う?ざんね〜ん!どっちも私でした!みたいな気持ちにさせられる。

つまり、この二つが揃ってこそ、良いものになると言っているわけです。ただ、そうは言いながらも、実はその後には、二つ揃わないにしても心が欠けるのはまずいというようなことを言うわけです。

現代でも似たようなことはあります。
わかりやすいのが、ラップと言うやつです。
韻を踏みまくるわけですが、韻のことばかりに気が取られてしまい意味が通じなかったり、不自然な日本語になってしまっていることが、まあそれはそれはよくお見かけします。
つまり、言葉に全力を振ってしまった結果ですね。もちろん、音という軸で見れば心地よい音の流れで十分に良いわけです。しかし、これで意味が通って心打たれるストーリーでも載っていようものなら、その感動はどれほどに増されることでしょう。この辺りは、米津玄師さんが素晴らしいところです。ラップではないと思いますが。

つまり、兼ね備えるとは、そういう効果があるわけです。
一方で、どちらかだけでも成り立つものであるということを忘れてはいけません。ラップの詞(ライムとかリリックといった方が良さそうですが)を、文学としてみれば、不自然な詞というのは看過できないものです。しかし、音楽の「音」としてみれば、心地よくて素晴らしいと言えるものである可能性もあるわけです。

それでは、これを史実と物語の問題で考えてみましょう。
ここまで読んだ方ならお分かりかもしれませんが、この史実と物語では、この時点で問題が起こるわけです。
どちらが心で、どちらが詞なのか。
これが、人によって違うというだけなのです。

そうであれば、ある人が史実を心だと思っていれば、それを無視したかのような演出があると、根本が間違っているから良くない作品だと言いたくなるでしょうし、表現やら構成を心と思っていれば、史実に忠実でも、だからなんだと言いたくなるでしょうし、演技を心だと思っていれば、史実に忠実でストーリーが面白かったとしても、作品が台無しになったというでしょう。

全て揃うのが理想です。しかし、それはなかなかに難しい。
藤原定家がいうのだから間違いないわけです。もう定家のWikipedia見てみてください。これだけの人が言うならそうだろうと納得できます。

結局、創作という観点から見れば史実に忠実であるというのは、韻を踏んでいるかどうかレベルの話にすぎません。なぜなら、誰かが何かをしたしないレベルの不自然さならまだしも、社会通念としてこうあったというレベルのものであれば個人の主観で十分に壊しうるものだからです。これは源氏物語を読む上でも気をつけなければいけないところです。なぜなら、社会通念としてこうあったのだからというのであれば、他の女性のところに行く夫を見る女性は心を傷める必要はないからです。

さらに言えば、作った作品のジャンルがラップである必要がないのです。ラップであったとしても、無押韻の新ジャンルのラップかもしれません。
かつて自由律というものが生まれたように、時代劇という枠組みに新たなジャンルを生み出していると考えてもいいかもしれません。例えば、まひろは実は月から来たお姫様で急に宇宙に行ってダースベーダーと戦ったなどと言われれば不自然極まりありません。しかし、それを面白いといって平安時代劇×SF物語があってもいいわけです。著作権は不安ですが。

それに、必ず本歌取りを使わなければいけないわけではないし、序詞や掛詞が必須というわけでもないのです。無くてもいいのです。

作品の良し悪しというのは、このように見方で変わるものです。見方が違って、立場が違うから作品の評価が変わるのは当たり前のことであるわけです。それは、時間的な変化でも評価は変わったりもするわけです。


ただ一つだけ言わせてください。
史実通りでなかったとしても、「その作品の史実的であるかの項目で点数が低い」だけであるし、ストーリーが面白くなかったとしても「その作品のストーリーの項目で点数が低い」だけです。
少なくとも、まだ完結していない物語について「作品が良くない」か、どうかを判断するには、尚早であるように思います。



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