コソボ紛争 要約

●旧ユーゴスラビア連邦のコソボにおける紛争

●コソボは、長らくセルビア共和国内の自治州であり、独立を目ざすアルバニア系住民と、それを認めないセルビア当局との争いが続いてきた

※[コソボ自治州]
面積:10,887㎢
人口:約190万(2002年推計)
州都:プリシュティナ

●セルビアは中世セルビア王国の中心地であったコソボを民族的聖地と考えている

●コソボの人口の75%以上がアルバニア系、セルビア系は19%(1991年の公式統計)

●1980~90年代のコソボ紛争が、ユーゴスラビア連邦解体のきっかけとなった

●1968年と81年にコソボの自治権拡大を求めるアルバニア人の暴動が起こったが、ヨシップ・ブロズ・チトー大統領の体制下では、セルビアとコソボは平等の権限があり平和だった

●1989年
•セルビア共和国の実権を握ったミロシェビッチは、軍部隊を投入し憲法を修正、アルバニア人幹部を更迭、自治州政府と議会を実力で解散させ、コソボの自治権を事実上剥奪した

●1991年
•ミロシェビッチのコソボ政策への反発から
スロベニアとクロアチアの独立宣言で連邦は分裂・解体し、武力紛争に突入
•戦火は1992年にボスニアに拡大し、凄惨(せいさん)な戦争が95年まで続いた

●1997年
•コソボの状況が変わらないことにアルバニア人の間不満が爆発
•武装闘争を掲げる強硬派のコソボ解放軍(KLA)が活動を開始。
•KLA は、CIA の資金提供、武器供与、軍事教練の実施により一気に強大化し、セルビア人を拷問し虐殺する強大なテロ組織化した

●1998年
•武力衝突が激化し、2000人以上が死亡、30~40万人の避難民が発生し、国際問題となった

●1999年3月
•大幅な自治権拡大、NATOの平和維持軍駐留などの和平案を、アルバニア人側は受け入れたが、セルビア側が拒否したため、NATOはユーゴ全土に航空爆撃など軍事介入を行った
•米軍のミサイルによる「中国大使館誤爆事件」に対しては中国国内で激しい反米・反NATOデモが行われた
※NATO史上初の主権国家に対する武力行使
※空爆をきっかけにセルビア当局側が大規模なアルバニア系住民追放を組織的に行い、難民・避難民が百数十万人に上るなど状況は混迷。

※[NATO の軍事介入]
•NATOは国連安全保障理事会の承認を得ず武力行使に踏み切った
•ロシアや中国などが反発
•NATOは武力行使を冷戦後の「新戦略政策」の発動としての「人道的介入」であると説明
•独立国家の内部の人権問題に対する人道的介入の是非や、許容範囲など、今後の国際社会の秩序のあり方について大きな論議を呼んだ

●1999年以後
•ミロシェビッチ政権がロシアとフィンランドの仲介を受け入れ、コソボから軍・警察治安部隊を撤退させたことで、NATOは空爆を78日間で中止
•コソボにはNATOを中心とした国際治安(KFOR)が駐留し、更に国連が「国連コソボ暫定行政ミッション」(UNMIK)を発足
•コソボは国連コソボ暫定統治機構の暫定統治下に入った
•住民同士の略奪や放火、殺人が頻発するなど民族間の対立・憎悪はむしろ拡大
•アルバニア系難民の大半は帰還したが、非アルバニア系のセルビア人やロマなど約20万人がコソボを追われ、新たに難民化した
•コソボの軍事施設だけでなく、ユーゴスラビア全土の工場や橋、発電所その他の社会基盤施設が破壊され、復興には数十年、その費用も数十兆円かかるため、経済の貧困がバルカン半島が不安定でかる根本原因なので余計に状況は悪化した

●2001年
•自治州議会選挙が行われ、コソボ暫定自治政府が立ち上げられた

●2004年3月
•アルバニア系勢力による大規模な暴動が発生、セルビア人施設などへの破壊活動が行われ、多くの死傷者を出し、非アルバニア系住民が避難民となるなど衝突が続く

●2005年
•国連安保理が関係当事者によるコソボの地位交渉の開始を決定した
•セルビア側はコソボに広範な自治権は付与するが独立は認めない立場をとる

●2008年2月17日
•コソボ議会がコソボ共和国として独立宣言を採択、icj、米国、EU諸国、日本が独立を認め、コソボ共和国を国家として承認した
•セルビア、ロシアは承認していない

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