![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/78108457/rectangle_large_type_2_b82dc571a1a848bd4304517bee7f7284.png?width=1200)
自由な嘘で生きていきたいー「輪るピングドラム展」から感じたアレコレ
「輪るピングドラム展~運命の至る場所~」に行ってきたので、備忘録を。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/78108912/picture_pc_e921ffd5c95e470e378e1a8f9b0e6ff1.png?width=1200)
「輪るピングドラム」について
入り口に書かれていた、
「彼らが生きている」
という幾原監督の言葉が頭に残っている。
それは単純に、アニメのキャラクターがアニメだけでなく現実でも生きているとか、描かれなくても物語は続いているとか、ましてや「君の心の中で生きている」とか、そういうのではないと思う。
生命活動としての生死、人間存在としての生死を取り巻くこの物語において、「生きている」というのはもっともっと複層的であるのではないだろうか。
だからこそ、原画や設定資料といったキャラクターの基盤を見ていると、胸がドキドキする。
ところで、原画を眺めながら、つくづくアニメーションというのは恐ろしい創作行為だと思った。一枚一枚手で描いてるんだからなぁ。絵を描かない人からすれば、尊敬を通り越して、異次元だ。
「輪るピングドラム」といえば、95年だろうか。
私がこの作品を観たきっかけは、サリンのことを取り上げたアニメだと知ったことだった。一体どのようにアレをアニメにするんだろう。
恥ずかしながら、幾原監督の存在を知ったのもその時で、自分の知らない世界の扉が開く音がした。
ハイテンションなギャグと哲学的なワードセンスのアンバランスさ。
謎解き的に進む中で描かれる人間模様。
装飾的な派手さとは対照的なテーマの重さ。
いずれの要素も有機的に結びついて、半分の林檎へと収束する構成力の高さに舌を巻いた。
アニメってこんなに自由なんだ。
それまで「アニメ」だと思っていた、少年漫画原作のものとかジブリのそれとは明らかに異なる世界が広がっていた。
「アニメ」と「演劇」―嘘をつくこと
展示を通して、「輪るピングドラム」という作品そのものへ思いを馳せると同時に、アニメという媒体についても考えながら見ていた。
私は演劇が好きだ。
でも、それと同じくらいアニメも好きだ。
大人になるにつれて、アニメを観る量が減ったのは確かだ。昔に比べ、ジャンルも特定のものしか見なくなった。
でも、アニメそのものに対する「好き」は衰えない。
監督、脚本、演出、アニメーター、美術、たくさんの人の才能と努力の集合体。演劇もそうなんだけどさ、でも、それが、テレビで無料で観れちゃうってどういうこと??
同じエンタメでも、漫画とか映画とかドラマじゃなくて、アニメと演劇が特別に好きなのはなぜだろう?
共通点を考えると、「何でもできる」に集約されるのではないかと思う。
アニメも演劇も、合理的な説明が不要で(個人の見解です)、余白を観る人が補って完成する(個人の見解です)、そんなエンタメだと思う。
(もちろんこの条件に含まれない作品群はたくさんあるし、アニメ・演劇以外のエンタメでもこれらに該当する作品がたくさんあるのは理解している。)
でも、やっぱり私にとってこの2つは特別だ。
舞台は、生身の人間がそこに存在しているから、常に肉体に縛られている。
でも、だからこそ固定された肉体を利用して物語を多次元的に繋げることが可能だ。
アニメは、映像的な嘘が映える。
カット1つで観客に与える情報をコントロールできるし、二次元だから物理法則に縛られない。
こうして考えていくと、
私の中の「何でもできる」は
「嘘をつける」と同義かもしれない。
想像力(イマージン)の中で私達は、どこまでも自由だ。
フィクションで摂取できる自由な嘘が、私の日々の原動力なのかもしれない。
脚本を書いていると…
私は高校生の頃から、ちまちまと演劇の脚本を書いている。
最近意識しているのが「舞台でしかできないことをやる」ということだ。
言い換えると「表現媒体が持っている得意分野を活かした作品作りがしたい」と思っている。
その影響からか、何か作品に触れる度に、媒体ごとの特徴というのを考えてしまう。
「輪るピングドラム」は変身バンク(?)を筆頭に、アニメでしかできないことだらけで非常に興味深かった。
また同時に、両ジャンルの接合点でもあると感じる。
幾原監督の作品には、演劇的演出が多く取り入れられている。前作「少女革命ウテナ」が天井桟敷とタッグを組んでいることからも明らかなように、彼は舞台好きだろう。ピンドラにも宝塚を彷彿とさせるシーンがたくさんあったし。
「パプリカ」「妄想代理人」などを手掛けた今敏監督もそうだが、アニメ監督はなにかと演劇に明るい人が多い印象だ。
では、そのルーツは?
おそらく、西洋芸術から続く表現方法とか、戦後演劇史とかそこらへんが絡んでくるんだろうけど、勉強不足でわからない。そこらへんを踏まえた上で演劇と絡めてアニメを観れるようになりたい。批評家の動画なんかも参考に、勉強していきたい。
きっと自分が作品を作る上でも活きてくるだろうと期待して。
***
一つのアニメ展示からずいぶんぐるぐる考えてしまった。でも、作品の内側を覗き見ることは、自分にとってそれだけ刺激的だったということだろう。
良い時間を過ごすことができた。
後日観る予定の映画も楽しみだ。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/78107227/picture_pc_828e760f7ddb6fd09802998640bc4eb2.png?width=1200)
境遇の寂しさと反比例するような、
明るく物の多いあの部屋、好きです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?