「これだけで、写真が撮れる」
出先で出会ったのは、赤茶けた「写ルンです」の看板だった。
ファーストカメラ
周りの木々が覆いかかり、もはや誰の気にも留まらない存在になってしまったその看板は役割をすっかり失っている。その姿に、勝手なノスタルジーを感じる。平成中期生まれのくせに、生意気にも。
私が「写ルンです」を使ったのは人生で一度きり。
小学校の修学旅行だった。
田舎育ちの小学生が、333mの塔を見せられて興奮しないわけない。噂に聞く白黒の人気者に惹かれないわけない。夢中になって、あちこちカメラに収めた。
でも、枚数に限りがある。
その上、失敗してもやり直せないし、その場で撮った写真を確認できない。
抑えきれない旅先の高揚感を数十枚に収めなくてはいけないとは…随分酷なことをしてくれるな、フジカラーめ…。
そんなありふれたフラッシュバック。
すっかり忘れてしまっていた、あの時のシャッターの重さを、この錆びた看板が思い出させてくれた。逆に言えば、出会わなければ一生思い出さなかった程度のものなのかもしれない。
それでも、看板1つで、ジリジリとフィルムを巻くあの感覚が蘇ってきたことには、ちょっと感動すら覚えたわけで、こうして記事にしている。
レトロブーム
「レトロブーム」
なんて言葉をよく耳にする。
1986年に生まれた「写ルンです」は、スマホの時代に“あえて”の下心を上手にくすぐり、返り咲いているそうだ。
かく言う私も、レトロにロマンを感じる性分である。写真のフィルターはいつも「ノスタルジック」だ。
だから、
「これだけで、写真が撮れる」
なんて、錆びついたフレーズに心惹かれてしまう。
「これだけで、」と区切られているから
「えぇ、こんなにお手軽に写真が!?」
という当時の人の驚きとかも想像しちゃう。
みんながケータイを持つのが当たり前になる前は、この小さな「これだけで、」が大勢の人の思い出を切り取ってきたのだろう。
忘れてもいいよ。
パソコン・スマホを筆頭に、多機能が当たり前の時代。何か一つのことしかできない、単一機能のみの道具はどんどん無くなっていくのだろうか。
この“エモい”のブームが流れ去ったら「写真が撮れるだけ」の使い捨てカメラは、淘汰されてしまうのだろうか。
写真に問うてみる。
赤茶けた看板は静かに、どっしりと全てを受け入れるように、そこにあった。木々に溶け込んでいるようで、存在が無くなったわけではなくて、ただ悠然とそこにあった。
私の不安感は「写ルンです」には不要かもしれない。
人は忘れられることに不安になって、怯えて生きているけれど、きっと物はそんなことないのだ。
忘れられないように時代に合わせ続ける人と、忘れられても変わらない物とで、うまくこの世界は回っているのかもしれない。わかんないけど。
彼ら道具は今の技術を否定せず、そのままであり続けてくれる。濁流のような人間生活の変化の中で、じっとそのまま。
物言わぬ看板が、そう言っているようだった。
あぁ、アニミズム的思考が話の落としどころを見つけてくれたようだ。
最後に
「この写真、実は「写ルンです」で撮ったのをデータ化したものなんです」
って、話だったらめっちゃ綺麗にオチがつくのに、残念ながらスマホカメラです
今度は、ポケットにノスタルジーを携えて旅をしよう。