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ロロ『ロマンティックコメディ』を観て

“ロロ”というキャッチーな名前を見て、昔の記憶が蘇った。

大学生1年か2年の頃、同じ大学の劇団がロロの脚本を上演していた。
ただそれだけの僅かな繋がりだけれど、今回観てみて「これは良い繋がりだったな」と思わされた。

初めて観る劇団なんだけど、初めてじゃない、変な感覚。

ねえ、ねえ


登場人物の少し風変わりな名前が良い。
「あさって」、「となり」、「遠足」、いずれも素敵だ。

「寧(ねい)」はずっと「ねえ」だと思っていた。話しかける感嘆詞が名前なんて、「ねえ、ねえ」になっちゃうのにな、とか考えながら観ていた。

観劇後、パンフレット観て、己の勘違いに笑ってしまった。

それにしてもなんでこの名前なんだろう?キャラクターのイメージなのだろうか?
それとも、キャラクターの物語における立ち位置なのだろうか?

なんにでも意味を求めてしまうのは悪い癖だ。意味なんて、鉛筆で書いたら消えてしまうのにね。

思い出


作者の思い出と、作品を結びつけないで…ていうのは、今回の劇の中で一番印象に残っている。

いくら故人を感じられる要素がそれしかなかったとしても、あんなにたくさんの大人が一つの小説にそこまで固執しているのが少し異様だった。

観劇中、そこがなんだかずっともやもやしていた。
このまま話が丸く収まってしまったら、あまりにも人が過去にしばられていて、コメディではなくなってしまうのではないかとさえ思った。

でも、となりさんが、煙草の煙と一緒に言葉を吐き出してくれた。
私のもやもやも、もくもくと吐き出された。

やっぱり、変だよ。現実と虚構の区別、ついてないよ。
作ったものは、イコール作った人なんかじゃない。

ロマンティックって


「ロマンティック」てなんぞや?

小説を通して、しいかのことを思っている彼らがみんなロマンティックなのかな?単純に、みんなが一つの物語で繋がっているのがロマンティック?


ところで話は変わるが、劇場入り口に貼られていたフライヤーの右上には「はなそうよ」という言葉が書かれていた。

確かネットで公開しているフライヤーには載ってなかったはず。
劇場入りする時になんとなぁく感じた違和感が、解明した。

ひょっとしたら、これも「間違い探し」だろうか?


そして、この「はなそうよ」が「ロマンティック」なのではないか、と感じた。

彼らはずっとお話していた。
しいかの話を、ずっと。
「手を繋ぐ」、「キスをする」、「抱きしめ合う」といったインスタントにロマンティックになる方法ではなく、ただ「話していた」。

いなくなった誰かを、写真や動画で思い出すのではなく、話すことで浮かび上がらせる。
そうした思いの顕在化が「ロマンティック」なのかもしれない。

恋や愛じゃないロマンティックの手段が「はなそうよ」だとしたら、作者はなんて優しくて柔らかいんだろう。

そんな世界を覗き見させてくれて、ありがとうございます。

交差点で会いたい


私は、波乱万丈な、奇想天外な物語が好きで、ソースに醤油にオリーブオイルをぶっかけたような濃い味付けの物語が好きだ。

だから、もしかしたらロロは、苦手なジャンルかもしれない、とチケットを買った時は不安だった。


でも、杞憂だった。
ちゃんと楽しかった。
彼らの発する言葉の一つひとつに、自分の人生との僅かな重なりや、価値観とのズレを感じて、何度も胸を打たれた。
他人の創作(虚構)で自分の人生(現実)を反芻させられた。

これが、何というか「生きてる」って感じ

これを「エモい」とかで形容したら、台無しだ。全然、「エモくない」。
そうだな、表すんなら、きっとこれも「ロマンティック」だ。


芝居はロマンティックでできているのかもしれない。

私の想像と、作者の創造と、その交差点が劇場。なんだとしたら、それは恋でも愛でもない、ロマンティックだ。


私は、その交差点にいれて良かった。

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