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1話『ただいま』と言いたかったかい

現在41歳となる私は、約15年前となる25歳で初めて商店街組織の派生団体である『青年部』の部員となった。まさにそれこそがこの商店街活性化活動のスタートであった。 これまで、本当に沢山の失敗をしてきた。もはや思い出せない出来事もあり、細かな詳細を語れる方も誰もいない。それだけこの15年間という期間が濃い膨大な情報に溢れ、記憶が不鮮明になる程懸命に走った事だけは間違いない。そしてそれは今も続いていて、終わりが見える事はないのだ。   私は商店街に母親の運営する店舗があったので、幼少期はお店に帰ることが多かった。自宅は商店街から近く家に帰ることもあったが、女性の世界であるブティックへと帰る日々が私の日常であった。そんなことで私の『ただいま』は母親ではなく、お店の女性スタッフが聞く台詞となっていた。 今思えば、商店街に関わる家庭ではそんな状況は珍しくなかったし、現在私がそれを何か根に持っているという訳でもない。たまに家に帰る時は、お手伝いの蜂谷さんや妹尾さんがいて、私を『シンペイちゃん』と呼んで暖かく迎えてくれていたことで、救われていたのだろう。 時代は変わり、女性が働く事が当たり前の近年に対して、昭和の終わり頃は専業主婦の家庭もまだ多かった。家に帰って母ちゃんがいる事が、羨ましく感じる瞬間は確かにあった。令和の現在ではあまりにもコンプライアンスにかかる偏見ではあるものの、女性は家を守るというカルチャーが確かに存在していた。 『3時のおやつ』という行為が、もはや聞こえてくることも少なくなっている。思い出の中にあるのは、口のまわりをコンソメパンチの粉で一杯にしていた高村くんの可愛い姿。私はそんな記憶たちが消えてしまうことを恐怖に感じるし、鮮やかな思い出が適時語り合える事も幸せと呼べるのだと感じる。 繰り返しになるが、私は家に母親がいなかったことを卑下してもいないし、親の理解をできる年齢となり両親へ感謝している。そう間違いなく腹に落ちている。 商店街という場所が暮らしの真ん中にあった片山少年は、のちに自分自身がこの街を背負う1人となり、所謂『商店街バカ』と自他共に認める生き方をするとは予期出来なかっただろう。これから記していく"商店街を舞台とした馬鹿騒ぎ”という名の活動は、このような記憶がマインドセットされた私だから続いている。 何度も止まる事を決めてきたことを裏切り、結局継続している理由はこれ正にといえる。 商店街や地域の後継者づくりは、ココを踏まえて初めて成立する。とはいえ星の数ほど同様の境遇キーマンはいるであろう中で、全員が乗っかっていないのも、また面白いのである。私は正真正銘の商店街バカなのである。

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