1012アート県クロニクル07_チラシ校了

直島がアートの聖地になるまで

●アート県クロニクル第7回
 開催日/2018年11月2日(金)19時~21時
会場/
香川県文化会館 芸能ホール(香川県高松市番町1丁目10-39)
ゲスト/秋元雄史さん(元地中美術館館長・東京芸術大学大学美術館館長)
主催/まちラボ
共催/NPO法人アーキペラゴ

「現代アートの聖地・直島」はどのようにして生まれたのか。
黎明期の1991年から15年間、アートディレクターとしてベネッセで直島プロジェクトを担当された秋元雄史さんが語る、知られざる誕生秘話秋元さんの新刊『直島誕生 過疎化する島で目撃した「現代アートの挑戦」全記録』の内容を、建築家 林幸稔氏がさらに深掘り。アートを通じて新しい価値観を生み出すその原動力についてお聞きしました。

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ゲスト:秋元雄史さん(元地中美術館館長・東京芸術大学大学美術館館長)
1955年東京生まれ。東京藝術大学美術学部絵画科卒業後、作家として制作を続けながらアートライターとして活動。新聞の求人広告を偶然目にしたことがきっかけで1991年に福武書店(現ベネッセコーポレーション)に入社、国吉康雄美術館の主任研究員を兼務しながら、のちに「ベネッセアートサイト直島」として知られるアートプロジェクトの主担当となる。2001年、直島のアイコン的作品である草間彌生『南瓜』を生んだ「Out of Bounds」展を企画・運営したほか、アーティストが古民家をまるごと作品化する「家プロジェクト」をコーディネート。2002年頃からはモネ『睡蓮』の購入をきっかけ
に「地中美術館」を構想し、ディレクションに携わる。開館時の2004年より地中美術館館長/公益財団法人直島福武美術館財団常務理事に就任、ベネッセアートサイト直島・アーティスティックディレクターも兼務する。それまで年間3万人弱だったベネッセアートサイト直島の来場者数が2005年には12万人を突破し、初の単年度黒字化を達成。その後、2006年に財団を退職して直島を去るが、落ち着く間もなく翌年、金沢21世紀美術館館長に就任。国内の美術館としては最多となる年間255万人が来場する現代美術館に育て上げる。10年間務めたのち退職し、現在は東京藝術大学大学美術館長・教授、および練馬区立美術館館長を務める。著書に『おどろきの金沢』(講談社)、『日本列島「現代アート」を旅する』(小学館)、『工芸未来派 アート化する新しい工芸』(六耀社)等がある。

●開催レポート

 東京藝大に入学するや否や、現代アートの魅力に取りつかれた秋元さんは、直島の「ベネッセハウス」の学芸員として35歳でベネッセに就職。しかし、なんと安藤忠雄による建築計画にも、1回目の三宅一生展にもノータッチ!2回目の企画で当時無名の柳幸典を提案すると、福武さんは「おもしろいじゃないか!」。

内部の作品が整うと、企画展は禁止され、苦肉の策として屋外展示を企画。そこから、直島の顔となる草間彌生の「南瓜」が誕生!

ベネッセ周辺の作品展示が整う中で、過疎化する本村地区での「家プロジェクト」が動き出す。民家を使った「イサム・ノグチ庭園美術館」の研ぎ澄まされた「空間」に感動した秋元さんは、改修を我が師山本忠司に依頼。作家に、宮島達男。そうして生まれた「角屋」は、古民家のアート空間としてのリノベーションの原型となり、山本忠司の遺作となった。


 「家プロジェクト」が順調に進む中、福武さんが2m×6mのモネの「睡蓮」を購入し、「直島で『睡蓮』に合う見せ方を考えてくれ」と。もうすでに評価の定まった、いわば批判の対象ですらあるモネの「睡蓮」と言われて、落胆する秋元さん。そのどん底から、現代アートに通じる空間と不可分な展示空間を想起。ジェームズ・タレルとウォルター・デ・マリアと3つの展示空間を福武さんに提案し、安藤忠雄による「地中美術館」が誕生する。水面にあるもの、映るものを混在させた「睡蓮」を、方向性を失った淡い光の中で魅せた展示空間は、素晴らしく感動的であり、それは秋元さんの作品である。

 苦境に陥った時々、秋元さんは現代アートの力を信じ、新しいアートのあり方を生み出してきた。懇親会の場で「しかし、なんであんなに現代アートの力を信じていただろうなぁ」には爆笑しました!(林幸稔)


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