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ものさし

(平成三年九月)

 朝、市場へ行って帰って来たときには確かに異常がなかったのに、午後配達に行こうと品物を積んで何メートルか走ってからどこかおかしいと思ったら左の後輪がパンクしていた。パンクはとくに珍しいことではない。 配達先でいい具合にスタンドの人に出会ったのであとでパンクの修理に来てほしいと頼んでおいた。二、三時間後に彼は来てくれて無事に修理を終えてくれた。何かもう少し言いたいことがありそうなようすなので不審に思ったら、パンクの原因は故意にタイヤを刃物で切ったらしいと言うのである。見に行くと確かにカッターか何かで切り込んである傷があった。
 わたしはショックを受けた。ただ単にいたずら、ゆきずりのいたずらにしても、わたしがいつも乗っている車と知ってこういうことをする人がいるとなるとやはり気になる。わたしが困るのを陰で喜んでいる人がいるということになるからである。まったくいやな気持ちになってしまった。
 とくに善行を積んでいるとは決して言わないが、かといってとくに他人に恨まれるような行いを意識してした覚えもない。そして、だれがこういうことをしたか、まったく心あたりのないこともいやな気持ちにさせる原因になっている。しかし、わたしはここで今までとは違う考えかたに自分を譲歩しなければならないことを知った。たいていの場合、人はだれでもそうだと思 うが、自分を基準にして物を考え、自分のものさしで人を計り、自分が正しいと思って行動していることが多い。 わたしもその例外ではない。もしもそのわたしのものさしに反感を持っている人がいるとすれば、タイヤをカッターで切り裂くことなどささやかな抵抗に過ぎないという場合もある。彼(彼女)はきっとこう言うに違いない、「タイヤですんだのは幸いと思ってくれなくちゃ。 こんどはカッターがタイヤでなくあんたの喉に当たらな いように…」。
 もちろん、わたしにはそんなひどいことを言われるほどの心当りはないが、ものさしが違う場合には心当りなどというものは消し飛んでしまう。命にかかわるほどの反感を他人に植えつけているとは思いたくないが、そうかといってまったくそういうこととは関係のない安全地帯にいつもいるとは限らない。これは考えようによっては非常に恐ろしいことである。
 多少神経質に考えすぎかとも思うが、常に最悪の場合を心のどこかに想定していることは、あながち無駄なことではない。そして、自分では気づかないうちに他人を深く傷つけている場合は、命にかかわるか否かの問題よりももっと身近にたびたび起こっているということに気がつかなければならない。
 故意にパンクさせられたのは今回が初めてであるが、たまたま浮上した悪意にこっちが気づいただけのことで、潜在する悪意(悪意とわたしがとるのはわたしのものさしによってであるが)はもっと数多くわたしの周辺にまとわりついているかも知れない。



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