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#08 鏡

 大きな窓から月明かりが柔らかく降り注いでいる。
 全てを包み込むような優しい光。それは太古から続く永遠の光。

 ルナは少し背伸びをして、壁に開いた自分の顔よりも一回り大きな穴から隣の部屋を覗いていた。そこは高価な調度品をバランスよくしつらえてあった。全てが満たされた、模範的な部屋だ。ルナは息を潜めて様子を伺う。
 一人の少女が静かに寝息を立てていた。月明かりが照らす。恐れもなく穏やかな表情に、少女の暮らしぶりが伺えた。何もかも違う。ルナがいるここには何もない。ベッドもソファも机もない。窓もなければ扉もない。無機質な六枚の壁に囲まれたただの空間だ。共通点を挙げるとするなら、その少女の容姿と年齢がルナと全く同じということだ。
 壁に開けられた丸い穴。ルナはそこから母親が自分の子どもを見守るような眼差しで少女を眺めている。ときには微笑み、ときには心配そうに、ときには遠くから、そしてときには穴から飛び出すくらいにまで顔を近づけて。少女はそんなことにはまるで気が付かずに、穏やかに眠っていた。静かに流れる時間の中で、次の日を迎える準備が粛々と進んでいた。

 生まれたての朝の日差しが部屋の中に降り注いでいた。
 万物に命を吹き込む太陽の光。それも太古から続く永遠の光。

 その日、朝から少女は忙しい。一口大に切った数種類の果物とミルクティで朝食を済ませ、外出の準備を始める。少女が元々持っている透明感を妨げない程度の化粧を施し、数ある中から小花柄のワンピースを選んだ。
 一通りの準備ができると、少女はルナの前で様々なポーズを取った。大きく口を開けて笑ったり、片目をつぶってみたり、唇をすぼめて軽く突き出してみたり、軽やかにステップを踏んだり。どれも軽やかで、弾むような若さに溢れている。ルナはそれを真似た。予想外の動きに戸惑うこともあったが、それでも懸命に少女を追いかけた。
 十八年間、一度もここから出たことのないルナにとって、世界とはこの箱のような空間と穴から見える部屋だけだった。ここから隣を眺めることがルナの全てといっても過言ではなかった。
 やがて少女は出かけて行った。主のいなくなった部屋の中には、また少女の残滓がふわふわと漂っていた。身体がほんのりと熱を帯びている。内側から何かが目覚めるような感覚だった。少女は帰って来るなり、今日がどれほど楽しかったかを嬉々として話してくれるに違いない。ルナはこの壁に開いた穴越しに聞くのだ。
 普段から少女は頻繁にルナに話しかけた。些細な日常を、身振り手振りを交えて喋った。ルナはその動きを真似ながら耳を傾けた。自分と同じ顔をした少女が表情豊かに語る姿を見ているのは楽しかった。自然に顔が綻んでくるが、何事にも限度はある。あくまでも穴の向こうにいる少女に合わせなければならない。それが自分の役目だから。それが自分の役目だから。それを逸脱すれば、自らの存在意義は瞬く間に霧散してしまうだろう。全てを受け止めるだけ。目の前で自由に振舞う少女の動きを真似るだけ。

 暗い箱部屋の中で少女の帰りを待つ。ルナの高揚感はとうに失せ、糸が切れた人形のように力ない。穴からは白色の陽光が差し込んでいる。丸い光の帯の中に細かな埃が舞い、それが却って光の存在を際立たせる。時間が経過するに従って、徐々にオレンジ色を帯びてきた。そこに群青色が混じり始めれば、この辺りに夜の帳が下り、今度は淡い乳白色の月光に取って代わる。ルナは光の色で一日の流れを感じている。

 扉の開く音に飛び起きたルナは、期待に満ちた眼差しで覗く。灯りが点いていない部屋の中央に少女は座っていた。表情までは読み取れない。雲に隠れているだろうか、ぼんやりとした月明かりが隣の部屋の輪郭のみを描いていた。しかし、それだけでもいつもとは異なる雰囲気をルナは敏感に感じ取っていた。嫌な予感がした。ごくりと喉が鳴る。恐怖にも似た感覚が全身を駆け巡り、こめかみに冷たい汗が一筋流れた。やがて雲が移動し、今宵の月が全貌を現すと、ルナは自分の予感が的中したことを知った。
 少女の着衣の数ヶ所が破れ、右肩が不自然に露出していた。まとまっていた髪も乱れ、あちこちに殴られたような痣が見える。途中で靴は脱げてしまったのか、爪先が黒く汚れていた。少女がこちらを見ることはない。わなわなと身を震わせ、時折、思い出したように荒い呼吸を繰り返していた。
 ルナは瞬きも忘れて、その光景に見入った。
 少女の様子が尋常ではないことは明白だった。今日の朝、あんなに楽しそうに出かけて行ったのに。外で何が起こったのかはルナにとって問題ではない。ここから見えるものが全てなのだ。穴の向こうにいる、自分と姿形が同じ少女が不幸に見舞われている。それこそがルナにとっての一大事だった。
 少女は大声で泣き出した。体内に巣食うありったけのものを吐き出さんばかりの慟哭は月明りで澄んだ空気を震わせ、ルナが今まで感じたことのない気持ちを容赦なく刺激した。

 あなたのそばに行きたい。
 あなたのその哀しみを、取り除いてあげたい。

 これまではあなたの真似をしていればよかった。そこにいるあなたはいつも幸せそうだった。いつも笑顔で話してくれた。おどけた仕草で笑わせてくれた。だから満足だった。こんな暗く冷たい箱部屋の中にいても平気だった。あなたが私を楽しませてくれるから。
 それが今は違う。哀しみの深海に溺れそうになっている。そんなことあってはいけない。あなたはいつも幸せでいなければならない。

 だって、あなたはわたしだから。
 だから、わたしがあなたを救ってあげる。

 ルナは壁を引き寄せるように力を込めると、顔ほどしかない大きさの穴に全身が吸い込まれていった。意外なくらい、そして拍子抜けするくらい、簡単に潜り抜けることができた。
 初めて足を踏み入れる世界に、ルナは一瞬戸惑う。全身で浴びる月光が眩しかった。瞼の奥が痛む。しかしすぐに意識は本来の目的を取り戻した。
少女はまだ泣いている。目を見開き、泥と涙が混じった頬を拭おうともせず、荒い呼吸を繰り返していた。
 一歩ずつ近付く。少女はルナに気付いていない。自らの身に降りかかった出来事の記憶と必死に闘っているのだろう。細い肩が上下に揺れていた。
 大きく深呼吸した。既に手を伸ばせば触れられる位置にいる。
 ほんの少しの逡巡の後、ルナはそっと手のひらを少女の頭に乗せた。今まで感じたことのない柔らかさに目眩がした。しかしそれも束の間だった。少女はありったけの力でその手を振り払った。そしてルナを見上げる。そこには抑制しがたい憎悪の光が渦巻いていた。
 驚きと絶望がルナを貫く。しかし不思議と意識は落ち着いていた。ルナは初めて自らの意志によって動こうとしていた。誰の真似でもない、自分自身の振る舞い。目の前で打ちひしがれている、自分の再生に向かって。

 ……あなたを救ってあげる。

 そしてルナは少女の首に手をかける。再び雲が空を覆う。徐々に月明かりが弱くなり、部屋の中は暗くなっていく。二つの影はそれでも重なり続けた。月の光は完全に消え、辺りは闇に包まれ、やがて何も見えなくなった。

 そして朝。部屋には二人の身体が横たわっていた。昨夜ここで何が起こったかなど、誰も知らない。いつものように一日は進んでいく。

 ルナと少女に向かって新鮮な光が降り注いでいた。
 それは死者を弔う光。きっとそれも、太古から続く永遠の光……。

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