マンタ

#04 そして彼女はマンタに乗った①

 そうなんです。急に動かなくなって。
 はい、今も全然です。大至急来て欲しいんですけど。
 場所ですか?ええと、ここどこだろう……。

 車の窓越しに目印になりそうなものを探す。先程から降り出した大粒の雨が窓ガラスを間断なく叩き、視界が遮られている。夕方と呼ぶにはまだ早い時間帯なのに、分厚く垂れ込めた雲のせいで辺りは日没間近のように暗い。
 こんなときにエンジントラブルとは。これ以上に最悪な条件の組み合わせがあるなら教えてほしい。とは言え、立ち往生したのが街からはだいぶ離れた舗装されていない農道の途中では、晴れていたとしても説明は容易ではなかっただろう。ボンネットの上で雨粒が打楽器のように飛び跳ね、その雑多な音で相手の声が聞き取りづらかった。
「それじゃ、出来るだけ早くお願いします」
 苛立ちがひらひらと胸の奥に堆積していくのを感じながら通話を終えた。待ち受け画面には三歳の息子が笑顔で写っている。
「孝之くんだっけ。元気?」
 助手席に座っている有里が穏やかに言った。口元にたたえた静かな笑みが、彼女独特の涼やかさをより強調していた。大きめのサングラスをかけ、薄手の長袖のシャツを着て、首元にはストールをふんわりと巻いていた。
「どっちに似てるの。……目元はヤスだね」
「まあね」
「どうだった、JAFの人」
「二時間くらいはかかるって」
「そう。だったら待とうよ」
「大丈夫か?」
「何が?」
「いや、何となく」
「それにしても、いつまで降るのかな、この雨」
「天気予報では、晴れのはずだったんだけどな」
「気まぐれだよね、天気なんて」
 僕と有里は雨に煙る景色を眺めていた。道伝いに茂った草木は曇天から降り注ぐ天然のシャワーでその身を清め、自身の緑をより一層濃く深いものにしていた。
「ごめんね、こんなことに付き合わせて」
「有里が悪いわけじゃないから」
「家に連絡したら?奥さん心配してるよ」
「……大丈夫だよ」

 半年前に離婚したことは有里に話していない。七年間の結婚生活だった。決定的な原因があった訳ではない。そう僕自身は思っている。それでも関係は破綻していく。日常の些細なことが、どちらかが些細と捉えられなくなったとき、積み上げてきた時間はあっという間に崩れてしまう。それは驚くほどあっけなく。

 農道には人の往来が全くない。気温が下がってきたのか、周辺が薄い乳白色の霧で覆われていた。そのとき僕の耳の奥で微かにねじが巻かれるような音が響いた。空気が震えることで発せられる音とは違っている。どう言えばいいだろう。いつの間にか前後や左右、上下の感覚を見失うような、時間がゆっくりと巻き戻されるような、そんな音だ。彼女は助手席の背もたれを少し傾け、軽く目を閉じていた。間断なく続くその音に、僕は現実から切り離され、別世界へと誘われていく。

*****

 高校二年生の夏。僕は二階の教室から窓の外をぼんやりと眺めていた。窓側の席に座っていると、強い日差しが容赦なく僕に降り注いでくる。全身から汗が噴き出し、シャツが背中に張り付く。鼻の頭に溜まった汗を指で拭い、真青な空に浮かぶ入道雲と生温い風の行方を追いかけていた。蝉が一鳴きするたびに暑さが増していく。一匹、また一匹とその声は徐々に重なっていき、他者よりも抜きん出ようと自己主張に余念がない。
 校舎は都心にある割には多くの緑に囲まれた場所にある。校門の近くには一本の大きなあすなろの木が立っている。樹齢百年を越えたその木は一期生が植えたものらしく、その姿は正に学校の歩みに象徴として真っ直ぐに、そして誇らしげに伸びていた。

 校内で行われる夏休み中の講習は午前中で全て終了した。ほとんどの生徒は既に帰宅してしまって、教室には僕一人しかいない。黒板には先ほどまで行われていた「酸と塩基の中和反応」についての計算式が消さずに残されていた。白や黄色や赤いチョークの粉がまだ空気中に舞っているようで、大きく息を吸うのがためらわれる。
 ふとあすなろの木に視線を移した。木陰で幼い男の子と女の子が座って遊んでいた。ご近所同士なのだろうか。親の姿はここから見えなかった。子供たちは小さな手を握ったり開いたり、足をばたつかせたりしながら仲良さそうだ。突然、男の子が女の子の頭を力一杯叩いた。不意をつかれたのか、女の子は一瞬黙り込み、それから大声で泣き出した。その声に触発されたように、男の子はもう一度叩いた。女の子が地面に倒れこんでも、両手を振り回すように叩き続けた。そこに怒りや憎しみといった激しさは見えず、蝉時雨が夏の暑さを切り裂くように響く中、あるのは冷静とも言うべき無表情な暴力だけだった。
 ようやく近くにいた親たちが二人を引き離した。母親に抱きかかえられた男の子はまだ事態が飲み込めていないのか、呆然としていた。そこに陽炎のような空気の歪みが重なる。子供たちとその親がその場を離れた後も、僕の目には先ほどの光景が色濃く残っていた。センスの悪いホラー映画を観た後のように、苦く酸っぱいものが澱となって鳩尾辺りに溜まっていた。
「ヤス、帰らないの?」
 背中に感じる有里の声に、残像がすっと消えた。
「どうしたの」
「ああ、ちょっと」
 僕はどこか救われた気持ちになり、ついさっき目にしたことを簡単に話した。全体的にまとまりを欠く、不揃いなビーズ細工のような説明だった。
「なるほどね」
 一通り聞き終えると、彼女は口の端に微かな笑みを浮かべた。そして大きく伸びをすると、「それじゃ、帰ろうか」と言った。
「え?」
「やっと講習が終わったのにもったいないよ。これでようやく夏休みが始まるんだから。ね、帰ろう」
 有里に促されて僕は席を立つ。教室が普段よりも広いような気がした。整然と並べられた机と椅子が静かに次の出番を待っていた。
 二人で黒板の文字を綺麗に消し、そっと窓を閉めた。忙しない蝉時雨が途端に小さくなり、僕はあすなろの木から意識的に視線を逸らした。(続)

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