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#07 そして彼女はマンタに乗った④

 幼い頃は過去を振り返ることなどなかった。その瞬間を生きることに精一杯で、その先に素晴らしい何かが待っていることを信じていた。いつまでもあの透明な時間に身を委ねられると思っていた。いつから僕らははみ出し始めたのだろう。何故はみ出していることに気がつかずに進んでしまったのだろう。

 もう無理です。離婚してください。お願いします。原因は改めて言うこともないでしょう。勿論、あなたが一方的に悪いなんて思っていません。私にも責められる点があることは認めます。でもそれで歩み寄ったからといって狂った歯車を元に戻せるはずないですから。孝之はあたしが引き取ります。もう遅いんです、何もかも……。

「有里、車が治ったらさ、どこ行く?」
「え?」
「空飛ぶマンタ、まだいるかな」
「……」
 有里は何も言わずにフロントガラスにぶつかる雨粒を見据えている。
「馬鹿な奴って思ってるんだろ」
「そんなことないよ」
「いいよ。俺もそう思うから」
「……何それ」
 そう言うと彼女が口元を緩め、そして声を上げて笑い始めた。それを見て僕も笑った。しばらく僕らは笑っていた。何が可笑しいのかも解らなくなっていたかもしれない。彼女のことが心配だということもある。夫の暴力から守りたいという気もある。しかしどれも間違ってはいないが正しいとも言い難かった。

「ねえ、ヤス」
「ん?」
「外、出ない?」
「どこ行くんだよ」
「解んない。その辺を歩いてみようかなって」
「こんな雨の中を?」
「そう。こんな雨の中を」

 有里が車のドアを開けて外に出た。追いかけるように僕も続く。途端に身体に雨がまとわりついた。しかし彼女はそんなことは気にも留めずに歩いていく。地面から受ける感触を確かめるような足取りだった。砂利を踏みしめる音がやけに大きく聞こえた。手つかずの自然の匂いがする。見ると長く緩やかな上り坂が伸びていた。頂上付近と思われる場所から先は見えない。
「とりあえず、あそこまで行こう」
 有里が目的地を指差す。上り坂は僕らが想像していたよりも急だった。両端の鬱蒼と茂った緑の圧迫感によるものか、あるいは雨のいたずらによる目の錯覚なのか、すぐに到着すると思われた目的地も、なかなか近づく気配を見せてはくれない。靴の中に水が染み込み、それが一層歩きづらくさせた。
「有里、大丈夫か?」
「うん。きっともう少しで全部が見えるはずだし」
 僕の前を進む有里は少し息を弾ませていた。
「ねえヤス、どうしてあんなこと言ったの?」
「あんなことって?」
「このあとどこ行くって。本気じゃないくせに」
「実は俺さ、」
「無理しなくていいよ。……私だって本気じゃないから」
「え?」
「いいの。感情を取り違えてややこしくなってるだけだから。大人なのに」
 それから有里は何も言わなかった。目の前の背中がこれ以上の問いかけを拒んでいた。僕らは黙ってひたすら歩いた。雨が二人の間に芽生えた気まずさに似た、ある種独特の空気を洗い流してくれた。雨が降っていて良かったと思った。
 地面に雨が吸い込まれる。耳を澄ませば木々の息吹が聞こえるような気がする。僕は大きく息を吸い、地球が巨大な生き物であることを改めて感じた。空気はどこまでも澄んでいる。体内が浄化される、素直にそう感じた。
 ようやく一番高い場所まで到着した。それまで見えなかった風景を目にした途端、僕らは感嘆の声を上げた。眼の前には地平線にまで到達するほどの範囲に渡って青い花が咲き、それらが風が吹くたびにさわさわと音を立て、まるで統制が取れているかのように同じ向きに揺れていた。花弁を彩る熟成された深みのある青は、深海で暮らす生き物たちの強い生命力を思わせた。僕らは呆然とその風景に見入っていた。
「こうなってるなんて思わなかった」
「ああ。あれ何て花」
「知らない。私も初めて見た」
「俺もだ」
「でもすごいね。こんな場所と出会えるなんて」
 そう言うと有里はその青い花の平原の中へゆっくりと歩き出した。僕はその後姿を眺めていた。腰の高さまで伸びた花の中を彼女は進む。両手で掻き分けながら、まるで何かを探すように。雨を吸い込んだ衣服が身体に張り付き、髪の毛の先から滴が落ちる。それでも有里は自分だけに与えられた空間を心ゆくまで慈しんでいた。
 僕の目に映る青に染められた平原はやがて大海原と変化し、花弁が波のように揺れた。呼応するように彼女は全てを解き放ち、裸の心をさらけ出して優雅に泳ぎ始めた。それは妖しいほどに幻想的な光景だった。
 風が吹くたびに海は違った揺れ方をする。そこに大きな影が現れた。無定形だった影は徐々に扁平な菱形へとまとまっていく。しばらくすると細長い尾のようなものもくっきり見えてきた。それは紛れもなくマンタだった。マンタが有里に近づく。彼女は静かに微笑むと、お互いの身体を重ねて漂いだした。それは古からの約束であるかのような振る舞いだった。有里が青に溶けていく。その様子を僕は食い入るように見守っている。
 やがて雲の切れ間から日が差し込み、有里とマンタを優しく照らした。キラキラと煌く雨の向こうに有里がいた。天からの贈り物を全身で受け取ろうとするかのように目を閉じていた。その余りの美しさに、このまま彼女が天空へと吸い込まれていくような気さえした。それは些細な焦りに似た感情を呼び起こした。置いてきぼりにされる訳には行かない。彼女のイメージと一つになるのだ。降り注ぐ雨と光を自分も享受するのだ。
「ねえ、ヤスもこっちにおいでよ」
 有里が手招きする。手を挙げてそれに応えた。そして名も知らぬ青い花の海の中に歩を進めながら、彼女は高校時代に交わしたあの口づけの感触をまだ覚えているだろうかと、そんなことを考えていた。(了)

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