#05 そして彼女はマンタに乗った②

 僕らが通っていた高校は、一応市内でも有数の進学校という位置付けをされていて、一応というのは学生の間ではそんな意識はしていなかったと思うのだが、それでも高校二年生になるとほとんどの学生がぼんやりと大学受験というものを意識し始めて、気がつけば自分でも驚くほどその存在感が大きくなっていて、大きさを持て余して、どこか気分も晴れなくて、だから自分にとっての何かを探して、でもそんなものはすぐに見つかるはずもなくて、それでまた気分が晴れなくて、と言うサイクルで毎日を送っていた。
 更に明治時代の洋館を思わせる校舎の佇まいは、否応なしに伝統と格式を誇示し、周囲や父兄が抱く信頼の象徴になっていた。有名難関大学合格を目標設定としている校風の為、勉強も峻烈さを極めた。高速度で進んでいく授業についていくのに必死だったために、学年が進むにつれて酸素が不足しているような息苦しさを覚えることも少なくなかった。
 張り詰めた日々の中にあって、有里は決して反発や目立った行動を起こすことはなく、むしろ控えめな印象なのだが、それでいて絶えず柔らかな雰囲気を身に纏い、あくせく勉強しているようには見えないが成績は良く、どことなく大人びた感じを周りに与えていた。
 そのことを示す逸話がある。
 ある日の放課後、教室で同級生二人が喧嘩をしていた。二人は今にも殴り合いになりそうなほど激高していた。たまたま一緒にいた僕はなだめることしかできなかった。原因は既に思い出せないくらいに些細なこと。毎日の生活の中で少しずつ鬱憤が積み上げられ、投げられた小石がかする程度のきっかけで崩れてしまったのだろう。
 そんなときに有里がやってきた。彼女はすっと二人に近づくと、突然、自分の手のひらを強く打ち合わせた。その音は教室の隅々まで響き渡り、空気を凛と震わせた。僕を含めた三人の気持ちが一気にそがれる。
「どうしてかは知らないけど、そんなことしたって何もならないと思うよ。さ、もう終わりにしなって」
 僕らは彼女の言葉に催眠術と間違うほどの従順さで従う。
「じゃあね。また明日」
 満足げに有里は教室を出て行く後姿を僕らは呆然と見送っていた。去り際に見せた長く艶やかな髪が、残り香のように強く網膜に焼き付いた。

 高校から続いている長くなだらかな坂を下ると、多くの生徒が登下校に利用しているバスの停留所がある。いつもなら学生で賑わっているのだが、今は下級生の女子生徒が三人いるだけだった。会話を楽しんでいた彼女たちは、僕らの姿を見つけると途端に意味ありげに視線をこちらに向け、何やらひそひそ話を始めた。最初はその後に奇声が上がり、逃げるようにその場を離れた。バス停にいるのは僕と有里だけになった。
 僕と彼女の関係は、周りが思っているほど親密ではない。お互いの恋愛感情について話したことはなく、従って僕と有里が恋人同士というとそれは違っていて、だからと言ってどこにでもあるような普通の友人同士かといえばそれはそれで違和感を禁じ得なかった。一緒に下校する程度の仄かな習慣を保つことが僕らの適切な距離の取り方だった。
 彼女の家はすぐ近くにあり、僕はバスに乗って帰宅する関係上、僕らが一緒にいるのはここまでだ。この日は次のバスまで多少時間があった。「ちょっと話しでもする?」と有里が言った。このまま帰る気にはなれなかったので、その提案に僕は乗った。古びたベンチに並んで座り、他愛のない話をした。勉強のこと、夏休みの予定、好きな芸能人について。バスの時間が過ぎても僕らは話し続けた。
 その間、あすなろの木陰で起こった出来事の様子が意識の中で何度か繰り返された。揺らぐ空気の中で行われていた光景に僕の気持ちが削がれる。自分の手と頭に鈍痛が残っている気さえした。
「だから、打ち上げ花火ってあるでしょ?」
 いつの間にか、話題が思わぬ方向に移っていた。どうしてそうなったのか。話の軌跡を辿れずにいる。
「それを日本で初めて見た人って知ってる?歴史上の人物で」
 考え込む僕の姿を、有里は楽しそうに眺めていた。そんなときの彼女の笑顔はとても穏やかだ。
「降参。歴史は苦手だ」
「そんなこと言って、休み明けのテスト、大丈夫?」
「ま、それはそれとしてさ。で、誰なの?」
「徳川家康。意外だと思わない?イメージ的に秀吉とかだったら解るんだけど。ねえ、当時の打ち上げ花火ってどうだったんろうね」
「……」
「ヤス?」
「……あ、ごめん」
 有里は軽いため息をつくと、足元の小石を軽く蹴った。小石は不規則に転がり続け、最初からそこにあったかのように眼の前の車道のセンターライン付近で止まった。
「気になってるんだ、さっきのこと」
 不意に訪れた静寂。その中に蝉時雨が渦を巻きながら混ざる。日差しが徐々に緩やかになってきた。空も薄ぼんやりと茜色がかっている。ようやく明日へと移行する準備が始まったようだ。
「あのね、ヤス」
「ん?」
「その男の子の行動って、珍しいケースだとは思うけど、突き詰めればとても深い愛情表現なんじゃないかな。その深さを、と言うよりもその感情そのものを理解できずに内面に沸き起こったものだから、自分でもどうしたらいいのか解らなかったんだと思う。もしかしたら解らないことさえ気づいてないかもしれない。それで咄嗟に取った行動が叩くということ」
 真直ぐ前を見て、有里は慎重に言葉を選ぶ。
「愛しさと憎しみって背中合わせだから。ある意味しょうがないのかもしれないよね。難しいよ。大人だってたまに取り違えてややこしいことになっているみたいだし。でもその男の子がもっと大きくなったら、自分の感情と上手く付き合えるようになるんじゃないかな」
 有里の言葉は宙に浮かび、やがてまとまって一本の糸になった。目を凝らしていないと見えないほど細く透明な糸は、空中を泳ぐようにゆったりと漂い、風がそっと撫でるとすぐに空気に溶けて見えなくなってしまった。
「答えになってないかもしれないけど」
「いや、いいよ。ありがとう」
「ヤスって、結構デリケートなんだね」
「いいじゃないかよ」
「勿論。素敵なことだよ」
 そのとき有里が徐に僕のほうへ身体を向け、顔を近づけた。何を思う間もなく、僕らの唇が重なった。どのくらいそうしていたのか。初めて味わう温かく濡れた感触は、僕から身体の動きと時の流れを完全に奪った。
 やがて有里はそっと顔を離した。僕は大きく息を吐く。ずっと呼吸を止めていたことに気づいた。心臓が今まで経験したことのないほどに激しく脈打っていた。
「また明日」
 他に何か話したのかもしれないが覚えていない。バス停に一人残された僕は、気がつくと自分の唇をそっと触っていた。
 それから乗るべきバスを三台やり過ごし、僕は彼女が何故あんなことをしたのかを反芻していた。現実の出来事ではないのかとさえ思ったが、唇に刻まれた記憶が事実を雄弁に物語っていた。
 すっかり日が暮れてから、僕は家路についた。次に彼女に会ったとき、どんな顔をすればいいのだろう。バスの揺れに身を任せながら、僕は気恥かしさを消せずにいた。

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