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②関釜裁判とはなにか?

「関釜裁判」

関釜裁判とは、1992年12月25日に、日本軍慰安婦だった女性2名と、女子勤労挺身隊だった女性2名が、日本政府を相手に公式謝罪と賠償を求めて山口地裁下関支部に提訴し、始まった裁判だ。その後、第2次、第3次提訴でさらに原告が加わり、最終的に10名の原告となった。この裁判は1998年に一審判決、2001年に二審(広島高裁、控訴審)判決、2003年に最高裁が上告棄却の判断を下し、最終的に原告の請求はすべて棄却された。それでもこの裁判がいまでもいくぶん注目される理由は、一審で原告の請求の一部を認容、つまり、国に賠償を命じる判決が出たから、と言っていいだろう。もちろん法的には、上級裁判所でくつがえっているわけだから、有効な判例にはならない。それでも、日本の司法機関がたった一度、原告の被害証言を事実認定し、慰安婦制度の非人道的性格と国の責任を認めたことは、当時、そうとうなインパクトがあったと思う。

関釜裁判については、花房俊雄・花房恵美子『関釜裁判がめざしたもの-−韓国のおばあさんたちに寄り添って』(白澤社、2021年)に詳しい。さらにもっと知りたければ、当時の支援団体が発行していたニューズレターが公開されているので、それを読めばだれでも論文が書けるくらい詳しくなれる。わたしが知っていることも、ほとんどこれによる。


2種類の「原告」

関釜裁判の原告は、10人。女子勤労挺身隊の原告は、一人をのぞいて、本人または遺族が実名の公表を拒んでいるので、名前を伏せている。これは展示でも同様。「どうせネットで検索すれば出てくるから一緒だ」とか言う輩もいたけど、そういう問題ではもちろんない。

河順女 1920〜2000 慰安婦被害者(上海) 第1次
朴頭理 1924〜2006 慰安婦被害者(台湾) 第1次
李順徳 1918〜2017 慰安婦被害者(上海) 第2次
柳○○ 1926〜2018 女子勤労挺身隊(富山 不二越工場) 第1次
朴◯○ 1931〜2012 女子勤労挺身隊(富山 不二越工場) 第1次
朴◯○ 1930〜2018 女子勤労挺身隊(富山 不二越工場) 第2次
姜◯○ 1930〜2009 女子勤労挺身隊(沼津 東京麻絲紡績) 第2次
鄭◯○ 1931〜2001 女子勤労挺身隊(沼津 東京麻絲紡績) 第2次
李◯○ 1931〜    女子勤労挺身隊(沼津 東京麻絲紡績) 第2次
梁錦徳 1929〜    女子勤労挺身隊(名古屋 三菱航空機) 第3次

このうち、梁錦徳(ヤン・グムドク)さんは、94歳の現在も徴用工訴訟(韓国では日帝強制動員訴訟という)にかかわっているから、ニュースなどでも見かけるかもしれない。1992年に始まった訴訟が、日本の裁判所から韓国の裁判所に場所を移し、現在の尹錫悦政権による代替案まで尾を引いている、とも言える。なんとその間40年。生没年を見るとわかるように、そのときの原告はほとんどが世を去った。もう一人没年のない李◯◯さんは消息がわからず、確認できない状態だという。

さて、この原告たちには、3名の「慰安婦」と7名の「女子勤労挺身隊」という二種類の被害者がいる。言わずもがなだが、慰安婦とは、戦地や軍の駐屯地に設置された慰安所で、将兵の性処理のために置かれた女性だ。女子勤労挺身隊は、戦争中の労働力の穴を埋めるために、勤労動員というかたちで軍需工場などで働かされた女性である。つまりは、被害の内容も、募集のしかたもまったく違う別の存在だ。

別の事案なのに、なぜ、彼女たちは同じ裁判で原告になっているのか。なぜ女子勤労挺身隊の被害者だけが名前を伏せているのか。ここには、慰安婦問題がその初期からずっと引きずっている一種の錯綜が存在している。それは韓国社会が、慰安婦のことを「挺身隊」とよび、両者を混同したり、同一視したりしてきた、ということだ。つまり、工場で働かされた人も「挺身隊」、慰安婦だった人も「挺身隊」と呼んでいたわけで、この状況が女子勤労挺身隊の被害者にとって、名乗り出ることをきわめて難しくしてきたことは、容易に想像できるだろう。彼女たちの多くはそのために、40年以上にわたって「挺身隊」の経歴を黙秘してきた。

「慰安婦」と「女子勤労挺身隊」の混同

問題はそれだけではない。

女子勤労挺身隊として名乗り出た被害者たちが、裁判が報道されることで、周囲の人から「挺身隊」つまり、慰安婦であるとの誤解を受けることになった。とくに家族からの誤解や反発は、被害者にいっそうの不幸をもたらすことにもなった。

さらに、日本では「新しい歴史教科書をつくる会」など、慰安婦問題が提起されてから、それに否定的な言説を展開する人たちが、韓国では「慰安婦」と「挺身隊」を混同していると指摘し、慰安婦証言の信憑性に疑問を投げかける、ということも起こった。たしかに混同しているのは事実で、とかく、この混同のために話が混線することも多かった。

「慰安婦」を募集し、戦地に連れていき、慰安所で管理していたのは、多くの場合、民間の業者であった。いわゆる「女衒」のネットワークで、それはたいてい、朝鮮人だった。この業者は軍の委託を受けており、慰安婦の輸送にも慰安所の設置にも軍が便宜をはかっている。慰安所の設置は軍がじかにやったという事実もある。民間の業者が募集・管理したとしても、責任は軍にある。それは河野談話の言うとおり。

それに対し、女子勤労挺身隊は、朝鮮総督府が募集し、当時の朝鮮の小学校で、校長や教師が優秀で体格のいい児童を選び、内地に行けばもっと勉強できて、たっぷりごはんも食べられて、生花なんかも習えると、積極的にすすめている。日本人として国に尽くす、という教育があったから、兵隊さんたちの苦労に報いるために、彼女たちは親の反対を押し切ってまで日本の工場に行った。

これは、どっちにしろ少女をだまして連れていった、とかいう単純な話ではなく、国家が公的機関を通じて奨励し、募集し、公務員が連れていったのと、民間業者が貧困家庭から女子をだまして連れていったのとでは、当然、責任のあり方がちがう。軍も国家の一部だから、総体として国に責任があるとしても、だ。

問題は、韓国社会での慰安婦のイメージに挺身隊が混入することで、慰安婦があたかも国家の公的機関による組織的募集のように、一元的に認知されがちなことだ。たしかにどちらもこんにちから見れば非人道的にちがいないけれど、ちがうものはちがう。

今回の展示や研究プロジェクトでは、このことをできるだけあいまいにしないことを心がけた。

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