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彼女について

私は枯れかかつた貧乏な苔です。

「木犀」

私は、尾崎翠に同情しているわけではない、と思う。けれども、彼女が作家として志半ばだったことだけは確かだ。今回の舞台化が、彼女の作品の再評価の一端を担う可能性がないとも言えないか…。

こう書いてしまうと身も蓋もないが、舞台化を通して尾崎翠を見つけたいという願いは、一方で、「見つけられたい」という私自身の切望でもあるのだと思う。

私は彼女に、”同族者”としての自負を感じる。砂丘の向こうに遠ざかっていく彼女の後姿は、私自身の未来を予知しているのだという考えから、完全に自由になることはできない。

砂塵の中から言葉を繰り出したい、砂丘の沈黙に埋もれたい、という相反する欲望は私を誘惑する。

私は子供の頃から、自分で自分を潜在的なマイノリティであると決めている節があった。書くことを選んでいるのも、たぶんそのことと関係している。

私はあなたと同じです、と伝えたところで、彼女は黙ったまま微笑んでいるだけのような気がする。筆力では及ばないし、彼女の「連想の飛躍」は唯一無二だと知っている。

それでも、尾崎翠の生き様とその作品に、書く力をもらったことは確かだ。

彼女は作家としての可能性を十分すぎるほど提示しながら、その上でやはり「書かない」という選択をした。どんな言葉も埋もれてしまいそうな砂丘に、身体ごと解き放つことで、彼女は未分化のまま、少女のまま留まった。

文学の第一線から離れた自分の姿を、「黄金の沈黙」と喩えた翠は、すでに行方不明を楽しみ始めている。この心地良い、泥のような沈黙。

鳥取に帰った後も、やはり翠の中には最後まで「女の子」が生きていたのではないかと思う。
彼女の広大な想像力の中で、小野一家の「変な家庭」は、ままごとのような愉快な生活を続けていたのであってほしい。そう願ってしまう。


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