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面影の残り香

『第七官界彷徨』の物語が、心に残っていた。"幻の作家"尾崎翠の人生が、刺さっていた。

物書きとして、女として、これからいかに生きていくべきか、悩んでいた時期(まぁずっと考えていることではある)そういう時、脳裏に浮かぶのが、鳥取砂丘を背景にした尾崎翠の後ろ姿だった。

思えば、卒論を書くため足を運んだ国会図書館で、素性を教える資料の少ない、"幻の作家"の面影を探していた私は、ウィリアム・シャープに憑りつかれていた「こおろぎ嬢」そのものだったかもしれない。
本を読み疲れれば、図書館の(地下室ではなく)最上階にある食堂で、コッペパンを齧った。他人に理解されにくい、不器用なこおろぎ嬢。

おもかげをわすれかねつつ…の詩は、尾崎翠の生き方そのものであるような気がする。諦念に似た静かな感情。

尾崎翠の描く恋は、ほとんどいつも片恋だ。登場人物の恋の相手は、必ずかげろうのように頼りなく、肉体を持たなかったり、話さなかったり、「香り」そのものだったり(‼︎)することもしばしばだ。

彼らにとって、「おもひ」は野に捨てるものとしてある。なぜ、捨てなければならないのか。恋が成就してはならないのか。

土田九作(『歩行』の登場人物)の言うように、本物を見てしまうと「書けなくなる」からだろうか。彼らの恋愛はまるで、ドッペルゲンガーのようだ。

自分の分身と対峙すると、我々は「死んで」(=自己同一性を失って)しまう。

いつも我々は、分身の後ろ姿を窃視しては、物思いに言葉を尽くす。

尾崎翠作品では、言葉は肉体の代わりになり得るものとしてある。「第七」の町子が赤いちぢれ毛から解放されるために希求するのは「詩(を書くこと)」であるし、『こおろぎ嬢』のふぃおな・まくろうどは、1人の作家の筆の産物によるものだ。

ちなみに、尾崎翠は映画、特に無声映画を愛した(芝居でなく、映画だったところがミソだ)が、チャップリンやナジモヴァは映画館の薄い幕の上で、肉体でもって彼女を魅了した。

しかし、尾崎翠にとってのチャップリンの実体は、帽子やステッキといった"小道具"だったようでもある。「第七」における小道具へのこだわりは、『「第七官界彷徨」の構図その他』という文章に記されてもおり、小道具もまた肉体の代わりになるもの、多くを語るもの(=言葉)であるのかもしれない。

…なぜ尾崎翠の描く人物たちは、肉体的な接触を避ける傾向にあるのか。
男女の異性愛、メロドラマ、恋愛模様は、彼女にとってあまりに普遍的で、ありふれた題材だから。もはや飽食してしまったから。

肉体としての言葉。根底には、言葉に対する圧倒的な信頼感がある。言葉の力を信じ、言葉を愛する。

薄い幕に映し出される、かげろうのような実体の希薄さ、感受体は、第七官。

この肉体の不在を愛する感覚こそ、第七官。なのかもしれない。

不在ゆえの寂寥。

(不在の)祖母に対する町子の涙も、第七官の一種。ノスタルジィ。メランコリー。切なさ。

どこの文学史にも存在しない、異国の女詩人。

よその土地に移った柳浩六、引っ越してしまった隣家の少女、隣家の少女に気持ちを傾ける三五郎。断髪された町子のちぢれ毛。失恋。

第七官のはたらきは、喪失の経験そのもの。
「第七」の全編は、獲得への意欲以上に喪失の予感に満ちている。町子は二助の煮るこやしの中にも、その匂いをかぎとる。

掴んだと思っても、それはすでに何かの面影にすぎない、遠い星の光のように遅れて届く、切ない交感なのである。

消えかかっていく時の星の明滅を、手の中に捕まえた蛍の光の、それらを、尾崎翠は愛しているのである。

投瓶通信のように、思いを野に捨てる。

それが、町子の「書けない」実態の真実なのではないか。

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今回、必要があって卒論を読み返したけど、論文じゃなくて作品になっちゃってるよと言われた、その真意がきりきりと迫ってきた。幼すぎたなぁ。でも、自分を実験台にしてよく頑張った、とかつてのこおろぎ嬢は言ってあげたい。

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