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競馬場で知り合ったダート1200にめっぽう強いお姉さんの話

 毎週競馬場に通えば、名前も職業も知らない友人が増えていく。パドックで見かければそっと近づいて、あの馬が来るだの来ないだのと話し出す。その中の一人が、ヴィーナスだった。本名を聞いたこともあるが、私は彼女をヴィーナスと呼ぶのが好きだった。私と同じぐらい、20代半ばを過ぎたぐらいの歳。ヴィーナスはいつもベージュの小さなポシェットに、前日の晩に印を書き込んだ夕刊紙を突っ込んでいた。

 ヴィーナスには時折食事に行く間柄で、でもその先には進まない男がいるのだという。

「彼と食事に行った時の週末はね、彼の名前に似た馬や、彼と同じ苗字の厩舎の馬を適当に買うの。前走も調教も見ない。外しにいくの。しあわせが過ぎるから、ふしあわせと釣り合いを取らないとバチが当たると思って」

 ある時彼女は、意中の彼の名前に「のヴィーナス」がついた牝馬を見つけた。咄嗟に彼女は「私のことだ」と、戦績もろくに見ずにしこたま買い込んだ。ゲートが開くや否やヴィーナスは軽快にトップスピードに乗る。ダートの短距離戦、あわただしい実況が加速する。ヴィーナスはまるで後続に気づいていないようだった。淀みない実況に身を委ね、先頭のままゴールを突き抜けた。ヴィーナスは直線で終始舌をぺろぺろ回していた。
 いくら買ってたの、と尋ねた。「大したことない」といいながら、彼女は払い戻し機から飛び出した7万円を震える手で引き抜いた。ヴィーナスがこんなめちゃくちゃな金の使い方をすることは、彼には秘密だった。これがどういう意味なのかはなんとなくわかる。好きな人に競馬を理解してもらえるか、賭け事が好きと失望されないかと不安になるものだ。

 馬のヴィーナスはその後もダートの千二あたりで堅実な走りを重ね、ほとんど掲示板を外さなかった。ゲートを出れば枠順問わずに内目の先団にとりつき、どれだけペースが早かろうと直線では余力たっぷりに先頭に並び掛ける。昇級戦でもそつなくこなし、2、3度走れば勝ち上がる。とんとん拍子の優等生。

 一方、人間のヴィーナスと男はゆるやかな平行線をたどっていた。それがどうにももどかしくて、「そういう男は自分からは言ってこないよ」なんてお節介も言ってみたが、ヴィーナスは「そのうち」とばかり繰り返すので、そっとしておくことにした。そして人間の方を置き去りにするかのように、馬のヴィーナスはとうとうオープン競走を制した。 

「年末、いけるかも。カペラステークス」
 人間のヴィーナスの、さも自分が出走するかのような口ぶり。中央競馬で行われるダート千二唯一の重賞・カペラステークスこそ、それぞれのヴィーナスにとっての年末の大一番なのだ。これまでのヴィーナスを見ていれば、決して夢ではない気がする。
「勝ったらどうする」
「いろんなことはヴィーナスがカペラステークスを勝ったら考えようと思う」
「告白するの?」
 ヴィーナスは一呼吸おいてから、それもあると思う、と呟いた。

 何かを変えるきっかけを競馬に見出す。初めはマヌケな話だとも思ったが、現に彼女はそうでもしないと前に進めないのだ。地方競馬をあたればダート千二の重賞は他にもあるが、ここを逃せば来年の春の大井競馬まで待つことになる。それまでに彼に恋人ができない保証はない。だからこそヴィーナスは目の前のカペラステークスに賭けるのだろう。腹のくくり方としては格好悪いかもしれないが、これもまたひとつの潔さだと思えてきた。

 しかし、カペラステークスの出馬表にヴィーナスの名前はなかった。ヴィーナスは骨折で戦線離脱を余儀なくされていた。全治未定、復帰の目処は立っていないという。

 ヴィーナスがいないカペラステークスのパドックに、気が抜けたように立ちすくむ彼女を見つけた。それがあまりにも寂しかった。何も言わずに近寄った。彼女は周回する馬たちを見たまま、私ね、と話し始めた。

「正直、カペラステークスが近くなるにつれて怖くなってきた。一生カペラステークスがこなくたっていいって思ってた。だけどいざヴィーナスが出ないとなったら、答え合わせの機会が遠ざかってしまったような気がして」

 彼女はそこにいるはずだったヴィーナスを探しているようにも見えた。

 当のカペラステークスだが、前にヴィーナスに4馬身敗れた馬が優勝した。それが響いてか、ヴィーナスはまた彼を食事に誘ったという。そろそろ昇級してくれと願ったが、後の顛末はお預けのまま、馬のヴィーナスも人間のヴィーナスも見かけることなく、有馬記念を終え、フェブラリーステークスを終えた。春の中山開催の頃、人間の方と再会した。

 何を思ったのか、彼女はカペラステークスの後、彼にヴィーナスの話をしたという。大事な存在が怪我をしたと。馬のヴィーナスは、友達と呼ぶには違う気がする。かといって、競馬の話だというのも、変な誤解を与えたら嫌だ。それで遠回しに言葉を選びながら話すのを、彼はずっと悲しそうに聞いてくれたという。あまりにもボンヤリした話になるものだから、彼は別の男の話と勘違いしたらしく、次第に話が噛み合わなくなり、ヴィーナスはなんだか騙しているような気がして、たちまち苦しくなってきて、「競走馬のことなの」と暴露したと。彼の顔を見られずに、お皿の上の食事に穴が開きそうになる程の視線でしがみつくヴィーナスの姿が浮かんだ。

「それで、どうだったの」

「彼、一度だけ競馬場に来たことがあるんだって。しかも、2012年のジャパンカップ」

 すとん、と何かが落ちるような音が心の奥で鳴ったあと、たちまち割れんばかりの大歓声がよみがえった。続く馬群を置き去りに、先頭の馬が真っ先に歓声に飛び込む。先頭は悠々突き放しにかかるも後続がみるみるうちに迫る。馬場の真ん中、黄金色の西日を浴びた栗毛の馬が涼やかに進撃を開始。さらに最内の狭いところから飛び出すもう一頭。その鞍上はさながら荒れる大海を決死でもがき進んでいるようにもみえた。並ぶ両者の馬体が激しく追突する。なおも怯まない。二頭は先頭の馬に並びかかるや否や、意を決したように飛び出し最後の争いへ。

 何度も見返した名勝負。まさか、あの歓声の中に彼がいたというのか。たった一度の競馬訪問で、あのジェンティルドンナとオルフェーヴルの、歴史的な三冠対決を引き当てたなんて。よっぽど彼はトクベツで、魅力たっぷりに違いない。ようこそ!と言わんばかりの上機嫌は私だけ、彼女は淡々と続ける。

「だから全部しゃべっちゃったの。本当は競馬が好きなこと、馬名が好きなだけで買ったら、1万円が7倍になったこと、一通り話し尽くした。彼はうんうんって聞いてくれたの」

 それは調子に乗りすぎだよ、と私は笑った。

「彼にヴィーナスの馬名を聞かれたの」 

 ひっ、と声が出そうになる口を両手でおさえた。 

「彼の名前がついてるのに恥ずかしいでしょ。それで結局、私みたいな名前の馬、って濁したの。そしたら彼はね」

 きっとお茶目な馬なんだね、って。ヴィーナスが照れくさそうに言う。こっちまで耳のあたりが熱くなって、スンと鼻から息を素早く吸い込んだ。でもあながち間違っていない。栗毛の可愛らしい牝馬。彼の名を乗せ、誰よりも速く駆けていく。ダートコースのゴール板の彼方に、ふたりの未来が見えた気がした。

 ヴィーナスが地面に視線を遣った。

「それでこの間のGⅠの日にね、新聞や馬券が飛び散る競馬場を歩きながら、本当に彼はここを歩いたのかな、って思ったの。ちぐはぐで、全然ピンとこなかった。彼は…そうだね。できれば最上階の馬主席でスタンドの風に涼んでいてほしい。パドックの柵の向こう側で、調教師と語らいながら穏やかな眼差しで馬たちを見ていてほしい。こっち側にいなくたっていいんじゃないかなって」

 ふしぎと頷くような気持ちで聞いていた。競馬場のいいところは、トクベツな人々と、我々みたいなのがうっすら線をひかれて、届きそうで届かないところ。時折すれ違えば素敵な装いに心惹かれたりするくらい。だからこそ、トクベツな人々に心を乱すことなく過ごしていられる。

 まぁそれより、クチャクチャの新聞にぐりぐり印を打つヴィーナスの休日を、彼に見られるわけにはいかないよな。 

 実はヴィーナスに一度だけ、彼の写真を見せてと頼んだことがある。ヴィーナスはスマホの画面に華奢な指を滑らせ、1枚の写真を見せてくれた。冬の朝焼けを背に並ぶ、二人の男女が写っていた。もどかしい距離感をそのまま切り取ったような写真だった。逆光で表情まではわからなかったが、いつものヴィーナスとはまるで別人だった。真っ白な光に包まれて、彼女は本当に彼のヴィーナスのように思えた。一体どんな状況だったのかと気になったが、これ以上は踏み込まなくていい、と飲み込んだ。 

 ヴィーナスが彼に秘密を打ち明けてからも、これまでと変わらず二人は会う機会を重ねてきたが、最後まで彼に思いを伝えることはなかったという。本当のところはわからないが、きっと彼女はヴィーナスのことを、そして彼のことを傷つけたくなかったのではないかと思う。ほどなくして彼は仕事の関係でどこか遠くへ旅立ち、会うこともなくなったそうだ。 

 同じ頃、馬のヴィーナスは福島にある競走馬の温泉施設で復帰を目指してゆったり暮らしていると聞いた。のんびり過ごすヴィーナスの写真を見て、彼女はやっぱりヴィーナスで、ヴィーナスもまた彼女なのだと思った。 

 今もパドックを歩けば、人間のヴィーナスの丸まった背中を見つけられる。ダートの短距離戦のパドックともなれば、ヴィーナスは新聞を広げて得意そうに語り出すのだ。 

「ヴィーナスの名前はね、いつも競馬新聞に載っているの」

 もちろん私もそれを知っていた。ヴィーナスはオープン競走を日本レコードで制していた。強い馬だった。彼女が最後に競馬好きを打ち明ける勇気を持てたのも、自分のことを「日本一ダート1200メートルを走るのが速い女」に重ねてきたからかもしれない。 

 ヴィーナスが誇らしげにクチャクチャの新聞を見つめる。視線の先には、レコードタイムとともに並ぶ『ヒデノヴィーナス』の名前が堂々と刻まれていた。 

夏に執筆したものを加筆して掲載しています。


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