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エルサとアナと私の旅立ち

2014年に『アナと雪の女王』が上映された時、この映画について、ひとつのブログ記事を書いた。

ポストモダンな『アナと雪の女王』の「その後」を予想してみた。

この中で、私は「この映画は終わって(END) いない」、むしろ「問題提起をしただけ」だと書いたけれど、その5年後に公開された続編の『アナと雪の女王2』は、この物語をきっちりと完結させ、私達に納得できる「答え」を提示している。そしてそれは、いまの自分にストレートに突き刺さる、とても力強いメッセージだった。

その「答え」が何なのかということを私なりに解釈し、なぜそのメッセージが心に突き刺さったのかを書いてみたい。

(注: 完全にネタバレです)

前作からの発展:「大人のためのお伽話」へ

前作については、主として婚姻・家族システムに関する文化人類学的考察という視点を主軸に論評した。そこで書いたように、ディズニーが描く「プリンセス・ストーリー」、言い換えれば「女の子のためのお伽話」は、「恋愛から結婚へ」という展開が定石だったが、『アナと雪の女王』はこの定石を見事に覆し、他者の承認に依らない自己肯定感の獲得、「恋愛(ごっこ)」に依らない真の愛情への目覚めといった、新たなテーマを提示した。

つまり、少女が大人の女性になってゆく過程で、「王子様」という他者への依存によって偽りの「自己実現」をするのではなく、「ありのまま」の自分を発見し「これでいいの」と認め、本当に自分を愛してくれている大切な人(家族、友情)を再発見し自分の居場所を確認する。それが前作における「ハッピーエンド」だった。

しかし、お伽話は大人になったところで終わりでも、人生にはもっと長いその先がある。今作はまさに、少女から大人になった女性ふたりが、こんどは大人として歩む「その先」が描かれている。前作に限らず、お伽話とはふつう、子どもから大人への階段、季節で言えば人生の春から夏を描き、秋の実りで終わるものだが、この物語は、大人がさらに成熟してゆく人生の秋から冬を描いた、「大人のためのお伽話」なのだ。

秋から始まる物語

物語は、彼女達が子どもの頃、父が語る精霊のいる魔法の森での体験と、母の子守唄の回想から始まる。この冒頭部分こそが、ふたりが真に大人として成熟してゆく新たな旅の序章なのだが、私がそれよりも注目したのは、その後に続く、前作と時系列的に繋がる「現在」の最初のシーンが、秋の実りの季節から始まることだ。これはまさしく、この物語が人生の秋から冬へと向かうものであることを端的に示している。紅葉に彩られた美しいアレンデールで、人々が秋の実りを祝い歌う。続編がどんな幕開けで始まるのか楽しみにしていたが、この秋の収穫祭(あるいはサンクスギビングか)から始まるシーンに、これは期待できるとワクワクした。

この歌の冒頭で、オラフはアナに、変わらないものはない、すべてが移ろいゆくことが怖くないのかと問う。「かぼちゃは熟れすぎちゃって/僕の葉っぱ しおれちゃう」のだ。この問いからも、この物語が大人になった「その先」をテーマとしていることがわかる。でもアナは、どんなに時が過ぎても、大切な仲間達との変わらぬ愛があるから怖くないのだと答える。彼女はエルサと違い、生まれたときから孤独を知らず、自分を守り支えてくれる人達がいることを自明のものとして大人になった。

そしてこの歌のサビは、エルサとアナが少女から大人になる過程で獲得した「いつまでも変わらないもの」を賛美し「現状」を肯定し、アナはこの現状が「いつまでも続いてほしい」と切望する。それでもやはり、「変わらないもの」などないということを、エルサは既に予感している。どこからか聴こえる美しい不思議な歌声が、彼女だけに囁きかけているからだ。大人になることはゴールではなく、まだ旅は続く。

「正しいこと」を求めて

その日の夜、やはり不思議な歌声の呼びかけに目覚めたエルサは、この作品のテーマソングである『未知の旅へ(”Into the Unknown”)』を歌い、旅立つ決意を固める。

すると、その途端にアレンデールに異変が起こる。火と水が消え風が吹き荒れ、大地は揺れる。エルサの決意が、霧に閉ざされた森に棲む精霊たちを呼び覚ましたのだ。アレンデールの住民が高台へ全員避難すると、前作でも登場した賢者トロールが登場しこれから起きることを予見しようとするが、未来が見えないという。

このとき、トロールはこの物語に通底する大切なメッセージを告げる。未来が見えないときは、「今できること、しかも、正しいことをしなければいけない」と。

このキイワードは、その後も何度も登場する。日本語吹替や字幕では、「正しい」が省かれて「いまできること」と短く訳出されているが、英語では常に、”do the next right thing” 、「いま(次に)できる正しいことをせよ」というフレーズが繰り返される。

では、何が「正しいこと(right thing)」なのか。それが、この作品が私達に突きつける重要な問いだ。

エルサの旅:己のルーツを探して

エルサにとっての「正しいこと」は、やっと獲得したかに見えた、手離したくないと切に願った穏やかな日常を振り払ってでも、不思議な歌声の導きに従い、自分の持つ力の源を探す旅に出ることだった。『未知の旅へ』を歌いながらこの正しい選択に目覚めた途端に、彼女は新たな魔法を現前させる。この魔法はその後の旅での新たな出会いを予感させるものだが、前作にはなかった映像表現で美しく描き出されている。

こうしてエルサは、アナ、オラフ、クリストフとその相棒のスヴェンと共に旅に出る。霧に閉ざされた森に入り、かつて父と共に森に行き出られなくなってしまったアレンデールの兵士達や、彼らと友好関係を取り交わしたのに、なぜか戦を仕掛けてきた森の住人ノーサルトラ達と出会い、少しずつ、両親の出会いや自分の出生の秘密に近づいてゆく。そして最終的には、母の子守唄に歌われていた「北風が海に巡り合う川」、すなわちアートハランこそが、自分の行くべき場所だと突き止める。

しかし、そこに辿り着くためには、冷たい荒波が押し寄せるダークシー(”dark sea“)を乗り越えなければならない。子守唄で「溺れないようにね」と警告された危険な海だ。アナは、最後まで姉について行く、ひとりで危険な目には遭わせないと言い張ったが、エルサは、ここから先は危険だからと断り、ひとりで荒波に立ち向かった。ここから先は、ほかの誰でもない彼女だけの闘いであり、自分で負うしかないものだと、エルサは分かっていた。不思議な声が呼びかけていたのは、自分だけだったのだから。

ここに、この物語の核心がある。人は皆、ひとりだということ。

たとえ支えてくれる家族や仲間がいたとしても、人は他の誰にも代えられない唯一個の存在であり、本人にしか分からない、誰とも共有できない真実や使命があるということ。それを自覚すること、すなわち自分という「個」の発見こそが真の自立であり、成熟だということ。

エルサはそれを自覚し、自分にしか聞こえない歌声の導きに従ったからこそ、「正しい」目的地に辿り着くことが出来たのだ。

たったひとりで荒波に挑んだエルサは、馬の姿をした不吉な水の精霊に行く手を阻まれ、壮絶な闘いを闘う。これは「自分には出来ないかもしれない」という恐れとの闘いではないか。しかし最終的には、エルサは悍馬を制すが如く水の精霊を乗りこなし、つまりは恐れを克服し、凍れる河、つまり氷河であるアートハランに到達する。このシーンは幻想的で極めて美しく、そしてとても静かだ。

アートハランはエルサにとって初めての場所であるにもかかわらず、涙を拭いながら「なぜか懐かしい」「まるで我が家よ」と歌い、氷穴の奥へと進んでゆく。そしてとうとう、ドーム状の大きな空間に出て、呼び声の主が亡き母であったことを知るのだ。実は私はもう何度も映画館に足を運んで繰り返しこの作品を見ているが、母と娘が「見つけた」「待ってたのはあなた」と歌い上げるこのシーンは、何度観ても震えるほど感動する。こうして自分のルーツと出会ったエルサは、その瞬間に、自然界の精霊達と人間界の架け橋である「第5の精霊」に転生する。「大きなちから受け入れ/新しい自分に」なったのだ。

アナの旅:孤独との出会いー少女から大人へー

他方、特別な力を持たないアナはどうなるのか。

アートハランへと旅立つ姉に、氷の舟でオラフと共に強制的に追い返された後、アナは地の精霊・アースジャイアントが棲まう川を下り、真っ暗な洞窟に迷いこむ。そこで、34年前に森が閉ざされた本当の理由が凍れる姿で現れる。アートハランで真相を知った途端に凍結してしまったエルサが、凍りつく間際に、アナに水の記憶としてそれを託したのだ。

その真相は、アレンデールの人々に言い伝えられてきたこととは正反対だった。2人の祖父がノーサルトラのリーダーを騙し、武器を持たない相手に襲いかかっていた。これが争いの原因であり、そもそも、祖父は彼らが住む森の魔法を恐れ、友好の証と見せかけて、水を堰き止める巨大なダムを建設した。最初から彼らを陥れるつもりだったのである。

ここでアナは、森を元の姿に戻すためには、ダムを破壊するしかないと理解する。しかしそれでは、フィヨルドにある自分の国は、ダムの決壊によって水に流されてしまう。だからこそ住民達は高台に避難させられたのだ。

重い試練。しかしやらねばいけない。そう覚悟し洞窟の出口に向かおうと意を決したが、オラフの様子がおかしい。エルサが凍りついて魔法が解けたために、オラフの体はバラバラに解け去ってしまったのだ。

恋人を森に残して(註1)姉を追いかけたが、己の使命をひとりで果たすためにと置いていかれ、大切な友も失い、洞窟にたったひとり取り残されたアナ(註2)。すべてを失った彼女は、暗闇のなかにうずくまり、「もうつらい/すごく悲しい/もう無理だよ」と嘆く。彼女はここで、生まれてはじめて、孤独を知ったのだ。

ディズニーのプリンセス・ストーリーにおいて、かつてこんなにも暗い場面があっただろうか。闇とは常に、敵対する悪(ヴィラン)がもたらすものだった。前作でさえ、アナやエルサの心を映す鏡としてではあったが、ハンス王子というヴィランがいた。しかし、この映画にはもはやヴィランは登場しない。アナがいま立ち向かっている闇は、全き孤独がもたらすものであり、誰でもないおのれ自身の深淵を覗く者だけが知る闇なのだ。

こうして失意と孤独を受け入れたアナは、闇の中から立ち上がり、「涙こらえて進もう/一人でも/やろう できることを」と歌いながら、光の射す出口を目指して高い崖を登り始める。

憶えているだろうか。前作で彼女は、氷の塔に閉じこもる姉に会いに行くために意気揚々と崖を登ろうとしたが、その実ほとんど登れておらず、結局はクリストフとスヴェンが引く橇で目的地に辿り着いた。彼女は向こう見ずで元気な少女だったけれど、その行動力はいつも誰かに支えられ、支えられていることを自覚できないほどに無邪気だったのだ。

その彼女がいま、誰の助けもなく一歩ずつ前に進み、険しい崖をただひたすら登っているのである。ひとりの少女が間違いなく大人として自立したことを示す、静かながら圧巻の場面だ。エルサがアートハランで転生するシーンと同じように、深く心を揺さぶられる。

崖を登りきり洞窟の外に出ると、夜が明けて世界は光に満ちていた。そしてアナは決意する。「決めた/自分の心にしたがう/もう何も悔いはない/やろう/できることを」と。

人は皆ひとりから始まる。自立するとは、そのことに気づくことだ。孤独を見つめ、いまできる正しいことをやるべくひとり立ち上がったからこそ、アナはこのあと地の精霊という大いなるものを動かし、祖父が計略のために造ったダムを破壊するという偉業をやってのけた。

アナはこのとき、エルサのような特別な力を使ったのではない。「起きてー!」と、ただ大声を張り上げて地の精霊を目覚めさせ、自ら走って彼らをダムまでおびき寄せ、自分に向かって大きな岩を投げつけさせた。誰にでも出来る方法だけれど、その勇気のある者がどれだけいるか。大半の人間は、出来ない理由を並べ立てて行動しない。彼女の向こう見ずは、正しい目的を果たすための、真の勇敢さに変わっていた。

ダムが決壊し大量の水がアレンデールへ押し寄せる。その大波を食い止めたのは、息を吹き返したエルサだった。アレンデールを守ると決めたのは精霊達だという。それはおそらく、孤独を乗り越えたアナが、私達のようなふつうの人間が持ち得る真の強さを示したからだろう。

その結果、エルサはアレンデールという人間界の女王の座を妹に譲った。アナは真の勇者となり、人の王となったのだ。(註3)

この映画の主題と私

個としての真の自立。それがこの映画のテーマだ。

プリンセス・ストーリーの定石を打ち破った前作にも驚いたが、今作にはさらに驚嘆した。この映画は、ディズニーのエンタテインメントが貫いてきた、誰もが許容できる分かりやすさを棄ててでも、伝えるべきことを、それがわかる者に伝えようとしている。エルサの母がそうしたように、ここまでおいでと観る者を呼んでいる。

そうでなければ、ほんとうに今やるべき「正しいこと」は見えてこないから。

そのメッセージは、私個人に真っ直ぐに、深く刺さった。この2年ほどのあいだに自分の身に起きたことと、驚くほどシンクロしていたからだ。

前作のアナ、あるいは従来のプリンセス・ストーリーの主人公達と同じように、私も結婚して「幸せな家庭」を持つことを「理想」だと強く思っていた。そしてめでたく結婚し子供を産み、仕事と育児に追われる中で自分を見失いながらも、それはどこまでも「正しい」ことだと信じ込もうとしていた。

でもパートナーはハンス王子と同じく、理想を叶えたいというこちらの願望を利用しただけだと気付いた。それに気付くまでに長い時間を要したのは、私自身が、自分の根強いエゴのために「正しい」ことが見えなくなっていたからであり、私もある意味で、アナと同じように、自分の叶えたい願望のために相手を理想化し利用していたからだ。

その間違いを正そうと一念発起して離婚し、最終的にアナと同じように初めて本当のひとりになり、今できることを、一歩ずつ進みながら積み重ねてきた。その結果、どうなったか。

墓穴に嵌ったまま人生終了では生まれてきた意味がないので這い上がったら、それに付随するあらゆるものを失った。それは大きな喪失だった。「努力」の結果積み上げたつもりでいたものを手放し、また離れていったのだから。でもその結果、私は「普通」への妄執から解放され、ただ「自分」だけが残った。
「普通」という霧が晴れたらあたり一面、以前より遥か遠くまで視界が開け見晴らしがよくなった。ゴールこそ見えないものの、いま自分が歩いている道もはっきりと見えるようになった。あとはただ自分の持って生まれたものを生かして目の前の道を進めばいいのであり、言うべきことを言うこと、為すべきことを為すことを怖れなくなった。(『出る杭』- 街場の女日記

そして離婚から2年ほど経った頃、私は20年ぶりで卒業した大学を訪れ、構内にある創立者の墓と初めて対面したのだが、その体験はそのまま、荒波をひとりで乗り越え、アートハランへ辿り着いたエルサに重なったのだった。

泣いたまま深々と一礼して手を合わせ、心のなかでこれまでの非礼を詫び、卒業から22年を経てやっとあなたに会いに来れたこと、少しはその資格があると自分で認められるようになったことを報告した。そして、これからもあなたの教え子のひとりとして、女性が単に経済的にだけでなく、自立した自由な個としていかに生きてゆくかというテーマを、その失敗や過ちも含め、みずからの生き方で示したいのだと誓った。
なんの根拠もないけれど、梅子と自分を結ぶ一本の強い絆を、このとき深く感じていた。やっと会えた安堵感で心底ほっとし、今のあなたでいい、それでいいのだと、梅子に背中を押されているようだった。蝉たちの大合唱がおかえりと私を包み、祝福と赦しを与えくれていた。
いまの自分にこれほど相応しい誕生日プレゼントがあるだろうか。正しいタイミングで正しい場所に戻って来れたことに、心からの感謝と喜びが溢れていた。(『女子英学塾』- 街場の女日記

これは私の物語、そしてあなたの物語

前作は、まだ幼かった息子と観に行った。もう既にどこかで限界だと感じていたのに、これが私の望んだ「理想」の「正しい」生活だからいいのだと自分に言いきかせていた。

既に双六でいう「あがり」に達してしまった自分には、アナのように自分のありのままを受け入れてくれる人が現れることもなければ、エルサのように「これでいいの」と自分の力を存分に発揮することもない。

だから、結婚する前の「若かった」自分なら共感しただろうけれど、これはもう私には関係のない、これから成長してゆく「若い人達」のためのお伽話なのだと、懸命に割り切ろうとした。前作に関する論評のなかで自分を「オバチャン」と嘲ったのも、そのためだ。

でも本当は、エルサが己の力で氷の塔を空高く立ち上げてゆく様に、胸が締めつけられるように苦しくなった。心の底から、エルサが羨ましかったのだ。

あれから5年が経ち、「その後」のアナとエルサに再会した私は、もう自分を誤魔化す必要がなくなっていた。私も彼女達と同じ道を辿ってきたから。前作からの流れも含め、この新しい「お伽話」は、そのまま私自身の物語なのだと感じていた。

でもきっと、そう感じたのは私だけではないだろう。大衆に夢を与えることを使命とし続けてきたディズニーが、このような新しいお伽話を世に問うたということは、それに共感する人が少なからずいる、きっと伝わるという作り手の確信と情熱があったからに違いない。

さあ、あなたも。未知の旅へ踏み出そう。

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脚註

註1)アナの恋人であるクリストフは、最初から終始一貫してプロポーズを試み続けるが尽くタイミングを逃し、この森でプロポーズの計画に夢中になるうちにアナに置いていかれてしまう。最後にはめでたくプロポーズに成功するものの、古めかしい価値観でいえば、彼は「好きな女をひたすら追いかける女々しい男」なのだろう。

でもそれは違う。クリストフは、いつも自分の道を迷わず進むアナという人そのものに敬意を払い、彼女が突き進むのをサポートすることが自分の役目なのだと知っている。支えるのはいつも女とは限らないのだ。

だからクリストフは、たとえアナがどんな危険なタスクに挑もうと、決してそれを引き留めることはない。「女の子がそんなに頑張らなくていいんだよ」と、紳士的なふりをして自分の支配下に置くような愚は犯さない。

アナと離れ離れになった彼は、彼女がダムを壊すために地の精霊を誘導し危うく踏まれそうになったその瞬間に再会し、「白馬の王子様」の如くスヴェンを駆って彼女を救う。彼はこの時、「お待たせ、どうすればいい?」と訊き、「ダムに連れてって」と言われただけで、全速力で彼女をダムへと連れて行く。

彼は、アナという人とその決断を、丸ごと受け入れている。何故そうするのかと問う必要さえない。ひとり(と一頭)で森を彷徨っていたときは迷いもあったけれど、再会したその瞬間に、それが自分にとっての「正しいこと」だと確信したのだろう。

ちなみに、これは完全な蛇足だけれど、クリストフがひとり残され『恋の迷子("Lost in the Woods")』を歌うシーンは、お笑い担当のオラフ以上に、この映画で一番の爆笑シーンだと思うのは私だけだろうか。だって、曲の歌詞といいアレンジといい、クリストフやトナカイ達の身振りや背景といい、完全に80年代のミュージックビデオのパクリでしょ。お約束のボヘミアンラプソディも出てくるし、作り手が面白がって笑わせにかかってるのがよくわかる。少なくとも40代以上の観客は、私の他にも爆笑している人がいてもよさそうなものだけど見たことがない。本国アメリカでは、大人の観客が確実に大ウケしているだろう。

註2)アナが洞窟の暗がりにうずくまるこのシーンで、私はふと、レオナルド・ダ・ヴィンチの《岩窟の聖母》を思い出した。洞窟はよく、それ自体が母胎・子宮の象徴とされているし、人類の歴史が始まったのも洞窟だという説もある。アートハランでエルサが辿り着いたのも、氷河の奥にあるドーム状の洞窟のような空間だった。

人は母の胎内という暗がりからひとりで生まれ出る。アナもエルサも、洞窟(氷穴)で新しい自分に生まれ変わったのだ。

註3)プリンセスが女王になるという結末は、本作と同じ2019年に公開された実写版アラジンと共通している。

1992年に公開されたアニメ版ではジャスミンとアラジンが結ばれるだけで終わったが、17年後の実写版では、父王や宰相ジャファーに繰り返し政治への口出しを遮られてきたジャスミンが、「私はもうこれ以上 黙っていられはしない」と高らかに歌い反旗を翻し、ジャファーから父の命を守る。その結果、父は娘を認めて王位を譲ったのだ。

今世紀のプリンセス・ストーリーは、「そしてお姫様は、王子様と幸せに暮らしましたとさ」では終わらない。

プリンセス自らが我が道を切り拓き、「そしてお姫様は、人の王となりましたとさ」で終わるのだ。

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