幸せなひとりぼっち

なんといっても、オーヴェが魅力的な映画だった。

序盤はぶすっとむくれている偏屈なおじいちゃんが、終盤画面のなかですこし微笑むだけで、幸せな気持ちになる。観て良かったと思える。主演の笑顔だけでこんなに魅せることができる映画ってあるだろうか。

この映画の魅力をオーヴェの魅力と置き換えて、なぜ私が彼に笑ってほしいと思ったのかを、演出から考えてみたい。

1.偏屈だが筋の通った勤勉な性格
これは、映画がはじまってすぐ読み取れるので、ある意味では他者から見たオーヴェの第一印象であろう。
花束の割引の仕組みにいちゃもんをつける、自身が「パトロール」と名づける不可解な巡回活動で、他人の家の前に落ちた吸殻を拾い、無許可で駐車している車を(恐らく車種まで)メモし、分別をしていないごみを仕分けしなおし、砂場に埋まったおもちゃを掘り起こして並べ、ルールを守らない連中を「無能」と罵倒する。
ただし、この行動の背景に「妻への欠かさない贈り物」や「集団生活の規律維持」という利他の精神と勤勉さがあることも、私たちには同時に読み取れる。(花束を若い女に贈る、自分の家の前に落ちた吸殻を拾って他の家の前に捨てる、という描写だったら、全く違う意味をもって受け入れたであろう。)
これで、オーヴェが、なんだか気難しいし面倒だけど、悪意に満ちた人ではないことが伝わってくるのだ。

2.一途で努力家
ここは、過去の回想でより深く描かれる部分だ。
彼は、いつも理不尽な仕打ちに、自分の持てる力を総動員して対峙してきた。彼の生い立ちは、言葉を選ばずに言えば、かなり不幸な方だと思う。幼いころに母を亡くし、人生が切り拓けると思った瞬間に父を亡くし、誰かを助けた結果、家すらも奪われる。しかし彼は俯かず腐らずに人生を見つめなおし、出来ることに全力で向き合った。だからこそ、ソーニャと恋仲になれたのであろうし、ソーニャと共に生きることで、自分自身が大切にしていたことを失わずに済んだのであろう。ソーニャとの幸せな旅行期間に、彼女が不幸な事故に遭ってしまったことは、彼にとっては自分の身を切られるよりも辛かったはずだが、彼は彼女の人生を切り拓くために、キッチンを改装し、頭の固い学校の玄関にスロープを作った。彼女と共に生きるために、また前を向いた。
また、彼が一途であることは、全編を通して描かれており、ソーニャへの愛だけではなく、車種を愛しぬく姿にも一途さがあらわれている。

3.慈愛に満ちた性格
2と3に関しては、実際にオーヴェと接し、親しくなった人と、映画をみている我々の順序は異なるだろう。(映画を見ている人は2→3だが、実際に接している人の印象は3→2かもしれない。)
彼は結局、困っている人を見捨てることができないし、人からの厚意を無下にもできない。得体のしれない異国の味付きチキンを贈られても、あのむっつりした顔で食べてしまうし、きれいに洗ってメッセージをつけたタッパーを返してしまう。子守りが苦手と言いながら、求められれば声色豊かに絵本を読んでみせたし、パルヴァネが運転にまごついているときには指南役を買って出、心無い一言で自信を失う彼女に叱咤激励を飛ばして見せた。
愛する妻のためのみならず、喧嘩別れのようになってしまった友人のためにも戦うし、そのための労力もいとわない。
誰かに評価されるから、ここで恩を売っておけば後々得をするから、という価値基準ではなく、彼が自分なりの価値基準で生きているからこそ、応援すべき人、大切にすべきことがよりクリアになっていて、だからこそ、飾り気のない態度で相手にとって本当にベストであることをできているのだと、私たちに感じさせてくれる。

さて、こんなに利他的で優しいおじいちゃんが、しょぼくれちゃって死にたい、と思って始まる映画だ。妻を亡くしたあとも、生きている楽しさや喜びを、感じてほしいじゃないか。
だからこそ、終盤の彼の微笑みが、私たちに喜びを与えてくれるのだ。

最後に、この映画では、繰り返し自殺を試みるオーヴェの様子が描かれている。でも、自殺には体力と気力が必要だ。準備も面倒だし、うまくやらないと死にきれない。本当に落ちこんでいるときには、ただ死にたいと思うだけで、実行に移す体力も気力もなく、「今日は元気だ、少し何かできそう」と思った時に、ふいに決行してしまうのだという。そして、社会は誰かが自分で死ぬことを簡単に許してくれない。

生きることが幸せか、死ぬことが幸せか、私にはまだ答えはわからない。その答えを見つけるために、映画を観るし、なにかヒントを見つけられるのであれば、撮ることで答えを提示してみたいと思う。

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