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いのちは誰のものか?

ぼくは、患者バカだ。

がんの告知が家族優先が当然だった時代でも臆することなく本人に告知していたし、本人不在で家族のみと話すことは基本ないし、本人と家族の希望がずれたときに家族を優先することもない。それで家族と衝突することもあるが、ぼくは全然器用な医者じゃないから、やっぱり患者一筋しかできない。
そんなぼくだけど、決して家族を蔑ろにしているということは一切ない。

とりわけ、終末期においてその考えは顕著だ。患者さん本人には「送られ方」がある一方で、家族には「送り出し方」がある。どちらかが100点満点で、どちらかが0点というわけにはいかない。旅立つ方だって、自分だけよければいいという考えはたいていないはず。残す家族のことを憂い、旅立つことがほとんどだと思う。

だから、こと終末期においては、本人を中心に本人のベッドサイドで、そこに家族も交えて、徹底的に語り合う。あくまで本人であることは不変で。
なぜ、今、そんな話をしたかというと、昨晩読んだこの本で、とある人を思い出したからだ。

患者さんは進行がんで、いわゆる末期状態だった。

あと何日だろうというころでもはや寝たきり。ご家族は奇跡を願っていたし、奇跡が起こらないまでも少しでも長くと望んでいた。そんなとき、とある治療をご家族が提案する。ぼくは反対した。なぜなら負担が大きいと思ったから。

患者さんは意識はしっかりしていたが、話す力はあまり残っていなかった。どうしてもぼくと家族の話し合いが主体になった。でも、ぼくは、家族に話しつつも、基本本人を見つめていた。あくまで本人だから。

そこで、本人がおっしゃる。

「先生、私ねそこまでこだわりがないのよ。家族のいうとおりにやってちょうだい」と。
解説してみる。

仮にその治療が本人に負担が大きかったとしても、それが家族の心からの願いであるならば、受け止めようという本人の意思だったのだ。
ぼくは感動する一方で、ヒポクラテスの誓いを思い出した。

つまり「少ならからず害を与えないこと」が医師の守るべき倫理観だったから。でもこの場合はどうだろう。患者さん本人にとっては、家族の願いを受け止めることが善なのであって、受け止めないことが害なのかもしれなかった。

今でも、ぼくがとった治療が倫理的に妥当であったのか全く自信がない。ただ、せめてもの救いは、害(とぼくが信じる)が想定された治療だったものの、思いの外、本人の緩和につながったということだった。
さあ、この本に戻ろう。

「安楽死と尊厳死」
ぼくは、日本で議論されている尊厳死について、結構な違和感を覚えている。その違和感の大元をこの本が教えてくれたような気がする。

今回ご紹介した患者さんは、最後は辛かったかもしれない。しかし本人の尊厳は守られたのではないかと思っている。


追記
1993年第1刷のこの本は、2019年に第28刷に至っている。30年近く前に書かれた本だが全く色褪せない。安楽死や尊厳死について考える方にお勧めします。


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