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三日月と海

今まで、夜の海は恐ろしいものだと思っていた。
人は、果ての無さに本能的な恐怖を感じる。
死が怖いのは、生が終わるためではなくその後永遠に続く無が恐ろしいのだ。
だから人間にとって、陽が落ちた後の海は、死を連想させる。

ところが目の前にある海はどうだろう。
満月のおかげで、砂のついた裸足の爪先まで容易に見ることができる。
風は穏やかで、凪いだ海面は眠る黒猫の毛並のように柔らかい。
月光に照らされた波は、天鵞絨かと思われた。

わたしは、傍らの女を見た。
日に透かされてきらきら光る栗色の髪が、満月の下では神秘的な黒髪に変わっていた。
優しい切れ長の目に見つめられると、今でも自分のいやな部分を千切って捨てたくなる。
そして、肉体と呼ぶにはあまりに貧弱な自らの身体が口惜しくなる。

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旅に出たいと言い出したのは彼女だったが、
その割に終始うわの空であった。
向かい合った座席で、わたしを見るでもなく、かといって景色を眺めているわけでもない。
ただ窓枠に身を預け、流れてゆく土地々々を目に映すだけである。

何を思っているのか、尋ねるのは不粋な気がしたので
わたしも同じ様に黙って座っていた。
通路の反対側では、家族連れが彩り鮮やかな弁当を広げ、
かん高い声で笑い合って旅路を楽しんでいた。

盛夏の太陽が照らす車内は、眩しいほど明るい。
わたしたちを除く外界が、違う時の流れをもって動いていることは明白だった。
窓外の電信柱や木々がその強烈な光をストロボのように途切れさせる度、
わたしの内にある、形の無い答えが閃いては消えた。

きっとこの夏はわたしたちを置いて
物凄い速さで飛び去り、
あっという間に暗鬱たる秋をもたらすだろう。

わたしは夏が持つ、子を育て、葉を茂らせ、
歯止めの効かない癇癪持ちのような雷雨を降らせる生気から少し逃れたかった。

かといってそれが差し出す秋に易々と身を委ねることも憚られた。
つまり、わたしのゆく場所は外界には無い。
わたしは野火に追われた動物のように、
少しでも酷暑を凌ごうと、一歩ずつ精神の階段を降りてゆく。

何層と何段、下っただろうか。
ふと、足先が水に触れた。
顔を上げれば、果てなく広がる、静かな夜の海だった。
どうやら此処までは野蛮な夏も追って来ないらしい。

最早そんなことは構わない。
今のわたしにとって要なのは、側に見慣れた栗色の髪の女が居ることだった。

お前も、降りてきたのか。
ずっとここに居たのよ、と彼女の薄い唇が、まろやかな声音を奏した。
三日月の朧げな光で、その顔をすべて確かめることが叶わないので、わたしは手を伸ばして輪郭をなぞった。

この期に及んで肉体を求める自分の浅ましさたるや!
それでも彼女は、ただわたしの手に自らの手を重ね、穏やかに微笑んで居る。

否、わたしが欲しかったのは彼女の精神の輪郭だ。
精神だけが、何者にも侵略できない最後の場所と知っていたからである。
ゆけば岬に達する大陸が肉体であるなら、果てぬ外海が精神だ。

海原に紅を垂らしても染まらないのと同じで、彼女はあまりに無垢すぎる。
奇跡があるとすれば、それは無限であり零である、彼女の存在であった。
今まで何と多くの者が彼女の精神を前に歓喜し、苦悩し、飲み込まれてきたのだろう。

水平線近く、満月のときにはなりを潜めていた五等星が、美神の髪の如く細まった月と共に、海へ沈もうとしている。

秋が来るまでに、月は欠けるでしょうね。

打ち寄せる波の泡に身をまかせながら、わたしは女の声を聞いた気がした。

そしてお互いに居る場所が、夏でも秋でもないことに安堵し、まどろみながら、やがて深い眠りについた。



#詩 #散文詩

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