超訳!三刀屋の歴史(鎌倉時代~戦国時代編)ー地域の歴史ってこんなにもエキサイティング!
いま働いている地域(雲南市三刀屋町)の郷土史を読んでみたら、歴史好きの自分にとっては、めちゃめちゃオモシロかった!ということで、自分なりにかみ砕いたものを綴ってみました!
1.「三刀屋」の語源は、「出雲大社を拝んだところ」
風土記によると「大国主命」の御門(鳥居)が現在の三刀屋にあり、当時の人たちはその鳥居から遠くの出雲大社を拝んでいたようです(えっ、三刀屋から出雲大社はもちろん見えないし、むっちゃ遠くない?すごい!)。
そして、そこには拝殿もあり、そのことを「御門屋」と呼んだと考えられていたとのこと。その言葉が、「御門屋」→「三刀矢」→「三屋」→「三刀屋」と変わっていったと言われています。
2.謎に包まれた「承久の乱」までの歴史?
三刀屋の歴史が文献に出てくるのは「承久の乱」以降とのことで、それまでは、どこの誰がこの地域を治めていたのか、何が起きたのかは謎に包まれているようです。
承久の乱(1221年:承久3年)とは、後鳥羽上皇(朝廷)が朝廷の権力を取り戻すために、北条義時(幕府)に仕掛けた戦い。後鳥羽上皇は、幕府軍に敗北し、隠岐へ島流しに。その結果、幕府の力がさらに強まることになりました。
3.諏訪部氏登場!ここから三刀屋史がはじまった!
承久の乱の功績により、東国から諏訪部氏が地頭に任命されたようです。東国から任命されたということは、鎌倉幕府から任命されたのでしょうね。
地頭は、土地の管理、(領民からの)徴税、(三刀屋の場合はおそらく幕府等への)納税を担当していました。
4.北へ南へ!揺れる南北朝時代
鎌倉時代の終わりごろに、守護として送られてきた塩冶高貞が出雲の国を支配していました。高貞は、鎌倉幕府からの信頼も厚かったようですが、後醍醐天皇(のちの南朝)による幕府討伐に味方します。
後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼし、1334年に後醍醐天皇自身が直接統治する政治体制(=建武の新政)を開始しました。新政の目的は、武家政権の影響を排除し、天皇中心の律令制に立ち返ることでした。
「建武の新政」における朝廷への権力の集中、地方武士への配慮の欠如、人事の不公平などが募る中で、足利尊氏が後醍醐天皇に弓を弾くと、高貞も尊氏側につき、出雲国内の武将たちもこれに続きました。当日の三刀屋郷の地頭・諏訪部氏も足利尊氏(北朝)と共に全国各地を回って戦ったとされています。
その後、南朝側が巻き返しを図ると、南朝側の山名氏が出雲を支配するようになり、諏訪部氏は南朝側と行動を共にします。幕府(北朝)から山名氏を討伐するように命じられたものの、諏訪部氏は一族総がかりでこれを追い払ったと言われています。ちなみに、このころから諏訪部氏は「三刀屋(氏)」と名乗るようになったとのこと。
5.出雲の雄「尼子氏」の降臨!三沢氏がやられた、これはピンチ!
山名氏が幕府側に敗れ、出雲国を追われると、京極高詮が出雲国の守護に任命されました。ただ、京極氏の本拠地は近江(滋賀県)で、高詮も幕府の中で役職があったので、高詮に代わって甥の尼子(持久)氏が出雲を支配するようになります。
尼子経久の代になると、月山富田城(広瀬町)を拠点として、戦国大名としての力をつけていきました。経久は、はじめに三沢氏(仁田町)を撃破。あまりにもあっけなく三沢氏が敗北。これはピンチ!と、怖れをなした出雲の国人(地方を治めていた武士)たちは、次々と経久の家来に。三刀屋氏も同じくこの時期に経久の家来になっています(戦わずして、三刀屋氏を配下にした尼子氏の影響力おそるべし!)。
6.中国地方の革命児、毛利元就爆誕!三つ巴の戦いと転戦の日々。
出雲にはじまり中国地方に勢力を拡大しつつある尼子氏の前に立ちはだかったのは、周防(山口県)の大内氏でした。そして、尼子氏と大内氏が争っている間に安芸(広島県)の一角から毛利元就が勢力を強めてきました。
三刀屋氏をはじめ出雲の武士たちは尼子氏、大内氏、毛利氏の勢力争いに巻き込まれ、戦のたびに出兵を求められて、各地を転戦していくのでした。
尼子氏は毛利氏を打つために二度にわたり大群で吉田に攻め入りますが、大内軍が毛利方に加勢したために力尽きて撤退。一方、大内氏も大軍を率いて、尼子氏のいる月山富田城に向かいましたが諸国から加わった国人の裏切りを受けて、命からがら逃げかえることに。
こうした中で毛利氏は徐々に勢力を拡大していき、尼子氏との戦いが本格化することに。
7.イケイケの毛利氏に俺も乗った!毛利氏の出雲攻めを支えた補給基地三刀屋城!
毛利氏の勢いを感じた三刀屋氏や三沢氏は尼子氏を離れて、毛利氏につくことになりました(出雲と言えば、尼子氏と思っていたのですが、このタイミングで三刀屋氏は毛利氏側に寝返っていたのですね!)。
永禄5年(1562年)には、毛利氏の大群が出雲に侵攻。松江の洗合で持久戦になると、毛利氏の物資を補給する上で、三刀屋城が重要な役割を果たすようになりました。尼子氏もそのことをよく承知しており、毛利軍の補給線を断ち切るために前原(大東町)方面から三刀屋城に攻め入ります。
8.闇夜の奇襲でジャイアントキリング!尼子氏を撃破(八畦の戦い)
熊野入道が率いる1500規模の尼子軍は、立原(加茂町)に陣を敷きました。三刀屋氏は、八畦峠を越えられては一大事と、三刀屋氏は600騎で密かに峠に先回りし、夜の闇に紛れて尼子軍の陣に奇襲を仕掛けました。奇襲を受けて尼子軍は混乱。熊野入道も討取られることに。
この活躍を受けて、三刀屋氏は毛利元就から感謝状を受けたと言われています。
9.毛利軍が動いた!?噂に助けられた地王峠の戦い
翌年、尼子氏は再び三刀屋城に攻め入ります。しかも、戦力は前回よりも多い2000騎。尼子軍が斐伊川を渡って地王峠までくると三刀屋軍もこれを迎え撃つことになりました。
尼子軍はさらに攻め進み、三刀屋川を渡り、いよいよ三刀屋城へ。と、その矢先、毛利氏の大軍が洗合を出発したとの噂が流れ、退路を塞がれることを恐れた尼子軍はすぐさま富田へ引き返したと言われています(いずれにしてもすごい形で命拾いをしましたね。いったい、誰がどんな形でこの噂を流したのか。当時の情報戦の在り方が気になりました)
そして、その後、毛利氏が各地での戦いで勝利を重ね、尼子氏が滅亡したことで、毛利氏が中国地方一帯を治めることになりました。
10.三刀屋氏、最後はまさかの疑いで追放!?
本能寺の変の後、豊臣秀吉が織田信長の流れを継ぐと、秀吉は毛利氏と手を組んで、九州に出兵しました。この時、三刀屋氏も毛利軍の一員として九州に出兵します。
が、三刀屋久扶の代に、毛利氏から疑いをかけられ、三刀屋氏は三刀屋の地を追放されることになります。ちなみに、息子の三刀屋孝扶は、三刀屋を追われた後も毛利氏に仕え、各地を転々とした後に紀州(和歌山県)で徳川家康の家臣になったと言われています(思わぬ形での三刀屋追放。果たしてどんな想いで受け入れていたのか。そして、追放されてもなお毛利氏に尽くした姿勢に心揺さぶられるものがあります)。
11.毛利氏、関ヶ原の戦いに敗れ三刀屋からも離れることに
関ヶ原の戦いで豊臣方についた毛利氏は、豊臣方の敗戦の結果、領地の大半を取り上げられ、長門・周防だけを支配することに。ここで、三刀屋も毛利氏の支配から外れることになります。
毛利氏に代わって、出雲国を治めるようになったのが、堀尾吉晴でした。富田城と拠点としたものの富田城が東に寄りすぎていて国を治めるには不便だったため、松江城(千鳥城)を築きました。
12.西部の拠点三刀屋城も「一国一城令」の前に幻に。
松江城を築いてもなお、まだまだ東側だったので、吉晴は三刀屋氏の城のあった場所を西部統治の拠点にしようと考えました。吉晴は三刀屋城の整備を進めていたのですが、1615年に幕府が定めた「一国一城令」によりやむなく断念。三刀屋城は幻となることに。現在の三刀屋城跡に残っている石垣はこの時の整備事業の名残と言われています。
戦国時代には、全国各地に多数の城が築かれていましたが、徳川家康は、これらの城が大名たちによる新たな争乱を引き起こす可能性があると懸念し、大名の勢力を制限し、統制を強化するために「一国一城令」を制定しました。具体的な内容は、「①大名は領地内に1つの城しか持てない(そのため、多くの城が廃止)、②新たに城を建設するには幕府の許可が必要、③異なる領地に複数の城を持つことは禁止。」でした。
松江城が完成すると、吉晴は出雲国内の武士を松江に集めて住まわせ、ここに松江藩が生まれます。それまでは、三刀屋にも多くの武士が住んでいたと言われていますが、松江藩成立以降は、ほとんど武士が見られなくなったとのことです。
と、こんな感じで江戸時代までの三刀屋の歴史をざっくりとまとめてみました。歴史の大きな流れに翻弄されつつも時勢を見極め、仕える先を変えることも辞さない柔軟さ、強かさがとても印象的でした。
これを機に郷土史にハマりそうな予感がしているので、次回もお楽しみに!