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VO.12タネから始まる物語⑨「正しい選択」

順調に成長中です。
順調すぎ?て、鉢植えでは小さくて窮屈さを感じます。


そこで外の広い場所に植え替えするかどうか考えます。

どんな植物で、どう育つかわからないですが、さらに大きくなる可能性を考えると、環境変えはしてあげたいですね。

一方で、こんな思いもよぎります。

これまで割と順調にここまで育ったので、このままで充分なのかも知れない。

これ以上大きく成長することはないという可能性もあるし、環境変えにはリスクもあります。
外に出すことで、雨風にさらされたり、虫が付いたり、病気になったりするリスクが増えます。
それを考えたら、このまま室内で、鉢植えで育てた方が無難です。
リスクを犯して環境を変える必要は無いかもしれません。


相変わらずこの植物の正体はわかっていません。

「何者なのかわからない」

というのは、このように選択肢を増やし、決断を迫られますね。こんな状況に

「面倒くさーっ」

って思います?
で、そう思う自分を卑下したりする時もあるかもしれません。あるいは逆ギレするように、「自分はそんな人間だからほっとけっ!」とか。

いやいやいや、、、

ま、それはそれとして先を続けます。


リスクを考えて環境を変えない場合、もしかしたらさらに大きくなり、大きく花開く可能性があるのに、環境が適さず、本来の持ってる能力を発揮しないまま終わってしまう、という可能性もあります。

さて、どちらを選択するか?

、、、

、、、

、、、

私は迷わず外に植え替えることにします。


理由は次の通りです。

「どちらが正しいか」

これまで随分とこの判断基準に縛られてきました。
正しいか正しくないか、という考え方の訓練を子供の頃から受けてきたせいかもしれません。

この判断基準、言葉を変えると、正しいか正しくないのかの世界観の住人だったということです。
つまり「〝正しい〟ことをすべきである」というブリーフが形成されていた、ということです。(※ブリーフ=信念とか思い込みとか、そんな意味です)

この世界観にいたままだと、きっとこんな行動に出たはずです。

このタネが何のタネなのか、ひたすら調べる。
ネット検索したり、写真を撮って誰かに聞いたり、情報集めに時間を費やす。

もちろん、この行動が間違っている、とは思いまません。

へへっ、ほらまた「正しいか正しくないか」になってます。
こういうことです。

この世界観にだけいる、というのは疑問です。どっぷり浸かってしまった結果、目の前の状況を感じ取ることが疎かになり、いつの間にか目の前のことに目を向けることすら忘れてしまったりもします。

そして答え探しをし続けた結果、答えが見つからなかった時に取る行動は、直感という名目の一か八かのギャンブルです。
直感というとちょっと格好よかったりするもんで、そう言っちゃいます、、、自分の場合。

正直言えば先の
「面倒くせーっ」
からくる思考停止からのヤケクソに過ぎません。

少し話が逸れますが、思考停止は「ヤバイ」とか「病」とか言われます。このことに反論があるわけではないのですが、私自身、この言葉の意味を履き違えてしまったと考えています。
なぜ履き違えたのか?
それはこの、「正しいか正しくないか」の世界観にいたためです。この世界観にいる場合、
「思考停止をさせないとヤバイ」
です。この話はまた別の機会にしようと思います。


さて、正しいか正しくないかの世界観にいたままだと先のように正しかったのか、間違っていたのかという評価に行き着くしかありません。
どこまでいってもそうです。

さらに、それ以上にマイナスとなることは、あれこれ調べる時間と労力の浪費と、その間に絶好のタイミングを逃す、ということです。

さらにさらに、望まない結果になっても正しかった、と自分を慰め、言い聞かし、
正しかったという理由探しをし始めます。

これを「言い訳」と言ったりもします。

例えば、

失敗した時、他の、次の同じ種類のタネを手に入れた時には、この失敗を経験として、次の成功に繋がる、、、とかね。

確かに、その通りです。

今回は初めてのタネだったし、最後まで鉢植えで育て枯れるまで観察出来た。
この経験がないとわからなかった。
次は外で育てようという教訓、学びになった、
と考えることも出来ます。

そして、この経験は、良くも悪くも次の世代に引き継がれていきます。

種の存続という視点で考え、失敗も成功のうちと考えることが出来ます。


人間というのは、とても都合よく出来ています。
どっちに転んでもいくらでも理由は創れるんです。

ディベートという競技をご存知でしょうか。
そういう自分もよく知りませんが、間違ってたらどなたか指摘願います。

ディベートとは、
1つのテーマで正反対の意見を論理的に解説して闘い、どちらが説得力があったかを競う競技です。これは正反対の意見を交換して行うことも出来ます。つまりこれまでAではなくBが正しい、という意見で闘ってたのに、交換して今度はBが正しいという意見で闘います。

正しいか正しくないかの世界観にいた状態で、思考停止させたらヤバイんだ、と考え始めると、自分の中で1人ディベートが始まります。
で、どっちが正しいのかを考えて選択しようとします。

おそらく多くの人がこの世界観にいます。

今回は初めてのタネだったし、最後まで鉢植えで育て枯れるまで観察出来て、次は外で育てようという教訓、学びになった。この経験は、良くも悪くも次に活かされるし、種の存続という視点で考え、失敗も成功のうちと考えることも出来る、

という先の意見は、確かに正論です。しかしある意味外野の勝手な論理にもなります。

この目の前の、単体の植物にとっては、次は無いんです。


そう言うと恐らく、自分のことだけ考える人間になるな、もっと大きな視野を持て、となるわけです。それが正しいし、志高い生き方だ、と。

これも正論です。


が、私は迷わず外に植え替えることにしました。

前置きが長くなりましたが、その理由はこの記事の冒頭にある通りです。


「どんな植物で、どう育つかわからないですが、さらに大きくなる可能性を考えると、環境変えはしてあげたいですね。」

この「環境変えはしてあげたい」です。

「〜したい」という今の気持ちに従いたい。
それが植え替えの理由です。

何が正しいかより感じるままに。

感じるためには、目の前の今に意識を向け、注意してよくよく目を向け、耳を傾け、声無き声を聞く。この時「思考」は逆に邪魔になります。

この植物は、今窮屈そうなんです。
鉢植えから根がはみ出してます。

であれば、伸び伸び育つ場所に環境を移す。
 
仮に、もしその結果が上手くいかなかったとしても、と考えることもこの時点では必要はないと思いました。
というか、考えてもわからないことは、考えるだけムダです。

目の前で溺れてる子どもがいました。見渡しても他に人はいません。「助けたい!」そう思ったのに飛び込むか飛び込まないかを考える。極論、今回のお話はそういうことです。


窮屈そうだから、伸び伸び育つ環境に変えてあげたい!

さ、植え替えしよう!

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