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注意散漫

退屈と集中力

スマートフォンからインターネットを取り除き退屈をしていると、スマートフォンで人生が切断されるということがない。
人生ははずっとスマートフォンによって切り刻まれてきて、自分がどこにいるか、何者か、なぜ時間がないのか、どれくらい時間が経ったのか、この街の景色は美しいのか、今日もまた電車に乗っているのはなぜか、そもそも何を考えていたのか、すべてが曖昧になっていく。
脳の中身は軽いパニックになっているのだと思う。

友達との楽しい食事の後に、Twitterを見てしまうと、楽しい食事はスナック菓子のように雑多な快楽の中に紛れ込んでいってしまう。
果たしてあれはスナック菓子だったのか高級菓子だったのか、よくわからなくなっていく。
人と会うこともたいして楽しいことではないのかもしれない。
そう思うことすらある。

退屈をしていると、人生はそうやって切り刻まれないから、朝起きてから、友達とご飯を食べにいき、帰りに山手線に乗って広告を眺めるまですべてが一続きに起きていく。
最近は、スマホでブラウザが見れないことを退屈だとは思わない。
僕のベースラインが下がったのかもしれないが、はなから大した退屈でもなかったような気もする。
やらなければいけないことの整理を頭の中でやってもいいし、noteのネタを考えてもいいし、なんであんなに贅沢って楽しいんだろうって考えたっていい。
眠る前の、停止の強制とは違って、僕たちは日中の退屈な時間最も自由である。
一続きになった人生というのがやはり大事だと思う。
(3/5に書いた文章)

以下3/28日に書いた文章

デジタルデトックスの期間がすぎて、動画を見たが面白くなかった。
長いものには耐えられなくなっていて、それはとても良いと思った。
一方で、人の人生でゴシップなのに雷獣のナツミートの単位の動画は長尺でも半分以上は見てしまっていた。
動画が面白くない場合にはいいが、面白くてもやっぱり意味のない動画もたくさんあるし、意味があるような動画でも今の僕には必要がないものだったりもする。
特にこの文章を改めて読んで、確かに動画を見ているときは人生が断絶されていると思った。
詳しくいうと、「何をするべきか、何をしなければいけないのかなどから解き放たれた場所に自分がいた」ことに気がついた。
つまり、動画を見ている間は、自分が何をしたいかとか何をしないといけないかなどの自分の情報を全く考えていない。
何も考えていないのだ。
そこで完全にリセットされる。
そして、動画を見終わると、「思い出す」という作業が必要になる。
これが非常に無駄だ。

一続きの人生というのはただそれだけで価値があると思う。
ここ1ヶ月は一続きの人生を歩んできて、人に恥じるようなことは一つもしてないと思う。
全くサボらなかった。
でも動画を見ると、サボる脳にさせられてしまう。
サボる脳になるのは現実を忘れられて嬉しいから。

何が楽しくて何が楽しくないかなども良くわかるようになった。
動画編集とか人にあうとかそう言ったことは大事なことだった。
動画を見るくらい編集は楽しいし、動画は技術が溜まっていってすごいかどうかがわかりやすい。
でも時間制限があると疲れてもやるし、徹夜とかを簡単にできてしまうなとも思って改善点も見つかる。

一続きの人生を歩むことによって、社会生活は自分ごと化していく感じがある。
動画に逃げ続けていた過去は、社会生活は動画を支えるための車輪でしかなかった。
だからどれだけ楽に上手くやるかが問題でたくさんの言い訳をしてきたと思う。
現実世界に身を置くようになって、ジリジリと今になって跳ね返ってきているのを感じるのは辛いが、逆にサボらなければもう少し楽だったのかなとも思う。
現実をこんなに眺めているのはいつ以来なんだろう。

まとめ

一続きの人生の効果をまとめる。

・自分の人生を「思い出す」必要がない
動画の中に入ると「思い出す」という作業が必要になり生産的でない。
・自分の人生が退屈だとわかる
人生が退屈だと敏感に気づけるから、行動が変わる。
・人生のみやれば良くなる
究極のシングルタスク。

少なくともどんな人生になっても、現実を見ているのはそんなに退屈じゃない。
退屈な人生であろうとも、現実を見ているとその現実を変えようとするから。



デジデトあるある

youtubeのリンクを踏んでもブロックされるのに、一応踏んでみるとちょっとスッキリする。

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