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「第一部 形而上学」の話「形而上学」

形而上学とは

形而上学には、心の在り方、心掛けが大きく関与してくる。

1,形而上学

大自然(神仏)のうごき、能き、能きを知り、生活に生かす、生活の能率を上げる学び

未知のエネルギーが游在している。それを利用する学問

当来佛

例:子供が難病にかかるが、形而下的な治療はこれ以上無理といった場合。
本来は、形而上的な処置が必要。
形而上的に原因を追究して、本人や家族が考えを変え、生き方を変えれば未知のエネルギーが能き、病気はなくなるのが現実。
(原理原則:実在の実在、万物は意趣の所産)
※ 本来は形而上の原因究明が先行する場合がある。

2,形而上学と宗教

形而上学、宗教、哲学は同異義語で、これらは大自然の法則を説いたもの。
ただし、これまでの宗教団体で行われている、拝む、頼む、参るといった、行事などを主体とした内容ではない。
真の宗教は、学問であり、学び、思惟(シユイ:考える事)、練磨しなくてはならない。

形而上学は、あらゆる学問の基礎

当来佛

3,形而上学と心

「心が関与する」というと、「日々感謝の生活をすればよい」と、断じる人もいる。その心掛けが問題で、「感謝をする」のは、日々、人として基本的なことだが、
「何に対して?」「どのように?」感謝をするのか、
「それはどうしてか?」と、さらに「責任を果たす」という点までとらえなければならない。
感謝と責任は、相(あい)対(たい)する相(すがた)、
表と裏の関係で切り離せないもの。(原理原則:相対の相)

まさに、神佛の知恵m力、法則を知り、それを利用する学問といえる。
(原理原則:感謝報恩)

4,形而上、形而下の両立

ただし形而上学は、形而上だけの一方的な理解では成立しない。
形而下の学問、法律、常識、習慣の上に成り立つのが形而上学。
形而下を無視しては、常識を外れたものになってしまうし、形而下が優先される場合、形而上を優先して考えなくてはならない場合等、考え方、物の見方、判断の仕方に置いて、加味配合、バランスのとり方が重要。
これらは、数字で表されるものでもない。実践し、大剣により体得するしかない。
※ 特に形而下の法や常識が自然法に抵触する場合は、形而上の法則の方が優先される。


ある意味、パッと聞いただけでは怪しい宗教っていうイメージが拭えない‥
まだ私もそう思う部分があるww
でも確かに、形而下(現実的、目に見える)部分からも考える、バランスをとるとすると、信じられる部分があるのではないか?!思う。

「知っておいて損はしない」
これから入ってもいいのではないか?!

そういえば、「二極化する」という話をまたちょこちょこ聞くようになった。
私の中では、「苦しい人」と「楽しめる人」だろうなと思う。
物があふれ、戦後のような食べるものがない、住むところがないという苦しい状態がなくなった今、「心」の充実が重要になってきたように感じる。
どんなにモノがあふれていても、心が満たされない人が増えている。
「自分以外」に軸がある人は、きっとどこに行っても苦しい。
二極化というとスピっぽくて嫌いだ。でも、自分で幸せに気付ける人かどうか、だと現実味があって身近に感じる。
そして、そのほとんどがこの「中間」で漂う‥‥彷徨っている人が多いのではないか?!と思った。
‥‥私もなww

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