自閉症当事者からの、この言葉の概念感覚

(話を分かりやすくするために、敢えて自閉症者と定型発達という二分割の記述を用いた。実情はこれまた境目が虹色であるが、それは他の説明に委ねる。)

自閉症という呼び名、単語の指すイメージ、あまりに広大であり、当事者の私にはほぼ「野生動物」くらいに広すぎるイメージに見えて目まいがする。
野生動物にも、人に危害をなすものから、ほとんどペット並みなみに人にじゃれついてくるものまで幅がある。人はこれを狂暴さ、獰猛さ、などを想像して、単に野生動物と呼ぶ。しかし川を泳ぐ小魚から、はては公園のハトまで野生動物の一種。
彼等が地上で行きづらさを抱えているかというと、確かに人の冒した環境破壊で生きづらい。
こうしたことが自閉症という言葉に割と近いと感じる。そもそも定型発達者と違い、かなり野性的な感性を持つ我々は、現代文明に多数派の方々と異なる、そう、全く単に「異なる」感性を持つだけの人だ。
定型さん異なるってだけで、どの方向に異なるかはほんとにテンデンバラバラ。定型さんの決めた、障害の重い軽いみたいな、荒っぽい一次元では全くなくて、ライオンとエイの違いくらいに要素が異なる。

なので単に自閉症は、という言説には、幅が広すぎると感じる。
人間界に野生動物が住んでるとして、その大部分に例えば、その保護が雑すぎると言われたとしよう。そして、中には人間界に適応してるのもいる、それは議論の外であり、問題なのは迫害されてる野生動物だ!など言われても、ハトやエイからすれば、俺のこと話してるんじゃあないの?となる。

例えが続いてしまったが、私は診断を受けた自閉症者であり、自分の生きづらさも感じるが、生きづらさ自体が自分を見て欲しくもない。

定型発達さんの使う自閉症という言葉は、主に回りが困るかどうかで語られがちだ。自害、他害もそう。
本人が困っていないこともよくある。
定型の世界で誰が困る、困らないではなく、彼等の感じ方の本質がどのようであるかは、あまり語られていない。
困っていない限りは、彼等は定型発達の社会人と「みなされて」それにかなう振る舞いを要求される。これが大きな悲劇なのだがどうにか適応してしまうから見過ごされる。
当事者が見て欲しいのは、定型者が困るかどうかではなく、「私」自身の色合いの面白さ、味わいである。そこと接することがあれば互いに幸せでいられる。
それは、互いに違う生命の歴史を持つ者同士、いわば鯨や象に対する尊敬と畏怖の念を、同じ人同士に見える我々の間にも持てるかどうかなのだと思う。同じ人という思い込みを超えて、生命の種すら違うかもしれない、しかし互いに尊敬し合える生命体同士で、気楽に共に居られるかが問われて欲しい。
決して、同じ人間なのだとかいう勝手な思い込みを持たないで欲しいとすら思う。たとえ人としての生物学的枠組みに共に居るとしても、自閉症者を無理に同じ枠組みに当然初めから属するなどと思って欲しくはない。
私は当事者からの視点で話したが、同時に私は特別支援学校に三十年以上勤務した教員でもあり、それだけにプロの教員といえども知るのは知識であり、それが実に実態を離れた曖昧なものであるかを体験してきた。彼等の中でも私は常に異端者だった。自閉症者で教員ってのは少数だろう。
どうすれば定型者の社会に都合良く生きられるかが学校の教育目標であり、私達の生態の生物学的探求ではないこと、自閉症の概念が凄い勢いで変容してきて、まだ変化の途上であること、言葉のイメージの実情は当事者の感覚とはことなることを肌身で知る者だということは付言しておく。

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