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さまよえる「教会難民」急増中(総督)

 地域紛争や内戦の激化で、数十万人もの難民が母国を追われる中、教皇フランシスコは2015年9月、欧州の全教区、修道会共同体などに対し、希望と神のいつくしみのしるしとして、難民の家族一世帯を受け入れるよう求めた(CNS)。

 国内では、難民の受け入れが遅々として進まず、先進諸国に比べても最低水準であることなどが問題視されているが、我々キョウカイジャーがとりわけ救いの手を差し伸べたいのは、目下急増中との情報がある「教会難民」である。

 比較的アットホームな雰囲気を重視し、信者間の「交わり」にも積極的なプロテスタント教会で、人間関係に疲れたという信者が比較的淡白なカトリック教会に移る事例が増えている。

 同様に、行くべき教会が定まらず、教会が近所にありながら牧師との相性が悪いなどさまざまな事情で、転々とするケースもある。すでに、リアルな教会に属すること自体をあきらめ、日曜日の礼拝はインターネットで中継配信されている教会のホームページを開き、パソコンの前で参加?するという信者も案外多いのではないかと予想される。

 そもそも、一教会に「定住」することを好まない遊牧民的な信者もいるだろう。某八木谷涼子氏のように、信者ですらないが、個人的な興味関心や研究のために各地の教会を渡り歩く「流浪の民」も少なくないはずだ。

 いわゆる伝統的で「正統的」なプロテスタントの教会ではこれまで、一つの定められた教会に籍を置き、毎週の礼拝に欠かさず通い、月定献金(収入の十分の一と決められている教会もある)を納め、規定の条件をクリアして「現住陪餐会員」となることが何よりも重要視され、また推奨されてきた。

 しかし、教会員であるか否か、受洗者であるか否か、献金をささげているか否かが、果たして本人の信仰心やキリストを証しする生き方を示す上で、どれほど役に立つのかは問い直されて然るべきではないか。

 一つの教会に留まって、熱心に通う必要などないと言いたいわけではない。信徒が「自分の教会」にこだわり、教会や牧師が「自分の信徒」として囲い込んでいる限り、他から柔軟に学び、補い合うという関係は決して生まれてこないだろう。

 我々は、訳あって複数の教会を渡り歩くことになった「教会難民」から、期せずして外部の新鮮な情報に触れ、その違いや共通点に気付かされることが多い。

 むしろ牧師の側に、「かわいい信徒には旅をさせる」ぐらいの度量があってもいいのではないか。たとえ傍からは放蕩しているように見える時期があっても、いずれ帰るべきところに帰ってくるに違いない。その時は、あの「父」のように、盛大な祝宴を開いて迎え入れようではないか。

(2015年11月7日付「キリスト新聞」掲載)

【総督】名前不明 キョウカイジャーを統括する司令塔。「神の国」建設に寄与するため、あらゆる予定調和を打ち壊し、業界の常識を覆そうと目論む野心家。地上では仮の姿でキリスト教メディアに携わる。サブカル好きの中二病。炎上体質。武器:督促メール/必殺技:連投ツイート/弱点:カマドウマ(便所コオロギ)。

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