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国も教会も「あなたの」ものではない(総督)

 「牧師夫人」「特別伝道礼拝」と並んで最近気になっている表現がある。それは、「私の教会」「私の教派」「私の国」――。あくまで所有格の「の」ではなく、「私が属する」の意だとは分かりつつ、どうもしっくりこない。「それは本当に『あなたの』教会なんですか?」と聞き返してみたくなる。教会はもとより、教派も国も、誰か個人のものではない。

 「私の~」と聞くたびに覚える、そこはかとない違和感の正体は、小さな自己を何か大きな庇護のもとに置いて安心したい、同一化したいという願望なのかもしれない。日頃から「私の国」と言いがちな人は、「国」が批判されると「私」も侮辱されたかのように錯覚して怒り出したりする。同様に、「私の教会」が非難されることを極度に嫌う。「日本」は「あなたのもの」ではなく、制度上の一国家に過ぎない。自身の住む国について改善すべき課題を指摘することは、果たして「愛国心」の足りない「非国民」的行為だろうか。たとえ自身の属性が誇るべき要素を持っていたとしても、常に主観を排して見つめ直せる冷静さは持ち続けたいと思う。

 信徒が自身の属する教会の牧師を、「私たちの○○先生」などと呼ぶ折に見え隠れする独占欲も然り。そうした発想は、「私たちの牧師」なのに「私たちの教会」以外の仕事ばかりに忙しい、「私たちの牧師」なんだから優先的に「私たちのため」に奉仕すべきなどという浅薄な要求や教会の私物化にもつながりかねない。信徒が著名な牧師から洗礼を受けたことを自慢げに語ったり、牧師が洗礼を授けた信徒(後に大成した有名人など)をつかまえて「あいつは俺が育てた」などと喧伝するような醜態もその延長上にある。

 さらに言えば、我が子でさえ、一人格を持った明確な他者であり「私の」子どもではない。上からの権威に与えられた賜物は、みんなで分かち合ったらいい。人類が生み出してきた叡智や知的財産は、社会資源として全体で共有されるべきだし、介護が必要な高齢者も養育が必要な若年者も、「自己責任」として血縁による家族だけに丸投げすることなく、社会全体の課題として解決されるべきなのだ。私の、誰の……とせせこましく言い募ることをせず、一段上の階層に視点を置くことで景色は違って見えてくる。

 キョウカイジャーのメンバーにもたびたび繰り返してきたように、すでに自分(自国)のことだけ考えていれば幸せ(国益)が守れるという時代はとっくに終焉を迎えている。自己を守るためにこそ、他者への配慮をふまえ、視野を広く、展望は長く持たなければならない。

 「韓国なんて要らない」などと週刊誌が吠えて、被害感情を駆り立て、扇情的な報道が日々たれ流されるような時代状況だからこそ、なおさら言葉選びには慎重でありたい。

(2019年月9日11日付「キリスト新聞」掲載)

【総督】 名前不明 キョウカイジャーを統括する司令塔。「神の国」建設に寄与するため、あらゆる予定調和を打ち壊し、業界の常識を覆そうと目論む野心家。地上では仮の姿でキリスト教メディアに携わる。サブカル好きの中二病。炎上体質。武器:督促メール/必殺技:連投ツイート/弱点:カマドウマ(便所コオロギ)

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