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「5K」教会を克服せよ!(総督)

 受験シーズン真っ盛り。新年度を控え、それぞれ岐路に立たされている学生諸君も多いだろう。そこで今回は、小学校で定番の宿題「音読」の話から。

 旧世代の学習法はとにかく「反復」が命。漢字にしても「ひたすら書いて覚える」が主流だった。しかし、同じ漢字を何回も繰り返し(しかも脈絡なく!)書かせたり、同じ単元の教材を毎日続けて音読させることが、果たしてどれだけ国語力の涵養に効果があるかについては、改めて検証が必要である。

 無意味な繰り返しを強要されることで、せっかくの興味関心が萎えることもある。教科書に載っているせっかくのイイ話でも、毎日続けて読まされれば、当初の新鮮な感動は半減して当然。国語教育にとっては逆効果だった可能性すらある。

 実は、英語圏の学校でも「音読」が宿題に出るという。しかし、その手法と目的はまるで異なる。イギリスの小学校にはそもそも教科書がないので、同じ教科書を音読するのではなく、各自で自分のレベルにあった課題図書を選ぶ。漫然と読むのではなく、内容についての感想などを家で話し合うことが推奨されている。音読は、「本を開く楽しみを学ぶもの」なのだ。

 ことは国語だけの問題ではない。英単語や歴史の年号などもむやみに繰り返し書いて「体(手)に覚えさせる」のが、受験勉強の鉄則のように語られていた時代があった。部活の練習で「水を飲むな」「我慢して根性を鍛えろ」と説かれてきた、非合理的な精神論と変わらない。

 どうやら日本人は「耐える」のがお好きらしい。むしろ、ある種の美学をそこに見出し、多少の労苦を伴わなければ本物ではないとさえ考えがちである。たとえば出産で「ちゃんと苦しみを味わわなければ(無痛分娩など邪道)」とか、新人研修(新歓)で「試練に耐えてこそ一人前」とか……。文章は「アナログ(手書き)でなければ心がこもらない」というのも、やはり幻想に過ぎない。楽して同じ結果を出せるなら、断然その方がいいに決まっている。

 実はこの話、教会や礼拝にも通じる。日本の教会を「5K」(カタい、キツい、クラい、キビしい、コワい)と表現した人がいた。初めての人にはそう映るらしい。とりわけ伝統を重んじる教会では、みんな神妙な面持ちで礼拝に出席し、牧師の説教もメモを取りながら聞くというのが日常の光景である。

 「キリスト教(宗教)は厳粛なものであって、笑ったり、楽しんだり、面白がったりするのは不謹慎」「多少つまらなくても、苦しくても、それに耐えてこそ本物の信仰が磨かれて、信徒としても成長できる」かのような言説がまかり通ったりするが、そんなことはない。礼拝は修行ではないのだ。

 格調や品格も大事だが、もっと信仰生活を喜び、楽しむ余裕を持てたらと願う。

(2016年3月12日付「キリスト新聞」掲載)

【総督】名前不明 キョウカイジャーを統括する司令塔。「神の国」建設に寄与するため、あらゆる予定調和を打ち壊し、業界の常識を覆そうと目論む野心家。地上では仮の姿でキリスト教メディアに携わる。サブカル好きの中二病。炎上体質。武器:督促メール/必殺技:連投ツイート/弱点:カマドウマ(便所コオロギ)。

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