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乗車率200%の満員電車で通勤する「普通」の生活が「普通」じゃないと気づく時

最近長男がYouTube で、乗車率200%の通勤電車に乗り込む人々の様子を見て面白がっています。あらゆるものがエンターテイメントになる変な時代です。
「他人の不幸は蜜の味」とはよく言ったもので、悪趣味で不謹慎だとは思いつつも、長男につられて、ついつい見入ってしまいます。

それはまるで異世界の出来事のようで、「大変だね」「可哀想だね」といった空々しい言葉を並べることもありません。戦争や災害の被害者を見るときのような心の痛みはなく、ただ「なぜこれほど多くの人々がこの生活を選んでいるのだろう」と不思議に思うのです。

私もかつてはそこにいました。気持ちが身体を引っ張って、空きスペースのない電車に自分を押し込む。そうしなければ、会社にたどり着けないのですから。みんなそうして生きている。疑問を抱くことはありませんでした。

その後、しがらみというしがらみをほぼ断ち切って、国内外を転々とする暮らしを繰り返すうちに、「普通」という状況は、それを受け入れる人にとってのみ「普通」だということに気付きます。
今の私にとっては、寿司詰め満員電車で毎日げんなりすることは「普通」ではなくなりました。

うちの息子達は塾に通ったことがありません。部活に入ったことがありません。基本的には興味のあることしかしません。それが彼らの「普通」です。だから、根性がないかもしれません。辛い状況に陥った時の忍耐力がないかもしれません。でもきっと、辛い状況に出くわしたら、すぐに逃げ出すことでしょう。本当に辛くなる前に、我慢せず、自分達を守ることでしょう。

先日、夕食を済ませた長男がダイニングから自分の部屋に戻る途中、『あー、幸せ』とつぶやきました。それが聞こえてきた時、私は思わず笑ってしまいました。特別でもなんでもない、ありきたりな火曜日の夜でした。

人が幸せであることが「普通」である社会、この国がそんな社会を目指しているようには見えないことが、私は少し悲しく思えてしまうのです。多くの人が「普通」を信じて我慢している。子ども達も然りです。その我慢、本当に必要ですか?


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