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記憶の中の暑さ マカピーな日々#0796

マカピーです。
近所のおじさんは「昔の方が暑かった」と言いました。

マカピーがゴミ出しに出かけると、近所のおじさんに会い挨拶したのでした。彼は引退生活にはいって長く、毎日のように奥さんをデイサービスに送り出しているのでした。

マカピー:「今日は昨日より暑くなりそうですよ!」
おじさん:「イヤー全く朝っぱらからこれじゃあ先が思いやられる」
マカピー:「とうとう6月が終わらないうちに梅雨明けしちゃいましたね、この連日猛暑っていったいどういう事ですかね?」

おじさん:「オレはさ、若い時分は池袋にいて、扇風機があるだけの狭い下宿に暮らしていたけど、夏は暑く冬は寒かったなあ」
マカピー:「確かに!あの頃は若かったから『暑い!』って言いつつも耐えられたんでしょうね」
おじさん:「今よりずっと暑かったと思うんだ、あの頃の方が・・・」
そういっておじさんは遠いところを見るような眼をしたのでした。

陽炎が立つアスファルトであの男は何をしているんだろう?
マカピーは北海道中標津の養老牛で酪農のバイトをしていたころを思い出しました。

トラクターのアタッチメントにモア(草刈りのディスク)を取り付けて牧草を刈り取りが終わると、畑からトラクターを出し次の作業をしに農場へ戻るところでした。

どうやら、男が熱い道路にはいつくばっているところを見ると、望遠レンズを付けたカメラで、マカピーの乗るトラクターが『逃げ水』の中に反射するのを撮影しているようでした。

ご苦労様・・・この暑いのに!

2時間ほどトラクターでの作業に疲れていたので、近くを通り過ぎながらカメラの青年に声をかける余裕もありませんでしが、よく見ると近くの路肩に彼のオートバイが見えました。

そうか、きっと彼は本州から夏休みを利用して北海道に来て、「絵になる構図」を探し求めていたのでしょう。

実を言えば、マカピーだってこのバイトが終わればオートバイ(Honda XL250S)で北海道を回って東京まで戻るつもりなのだから、時間差こそあれ彼の立場と似たようなものだったのです。

そこからしばらく行くと日本で唯一「地平線」が見えるという開陽台があるというので、おそらく彼もそこへ行ったことでしょう。

地平線よりもマカピーに新鮮だったのは、根釧台地などで直線道路がずーっと続いていてそこをバイクで上ったり下りたりしながら直進する経験は本州では味わえないものだったからです。

北海道は梅雨がないと言われ、乾燥した夏のイメージがあるのですが、この地域(道東)では夏でも『濃霧』が発生し良い乾草ができないのでした。

干し草が良くなければ冬場の酪農飼育が困ります。
それじゃあ代替えのサイレージ(サイロで乳酸発酵させたトウモロコシや牧草を冬場の餌にします)を作ればいいかもしれませんが、労力と設備投資(当時はタワー型スチールサイロが主流。現在はラッピングで圃場に放置できるサイレージが作れる技術があります)が必要で大変だったのです。

オホーツク海からの霧はとても冷たく「高原避暑地」の雰囲気ですが農業をするには厳しい土地柄で、多くの酪農家が離農してゆくのでした。




あの頃、帰省もせずに東京の狛江市の4畳半の下宿にいれば、ランニングシャツに汗をダラダラ流してボーっとしていただけかもしれないのです。


マカピーは暑いのを避けるように、北海道の酪農や長野県野辺山高原のレタス畑でのバイトしていたのでした。

それが、やがて米国での一年間の酪農実習に繋がり、社会人になってからもマレイシアでの2年間の青年海外協力隊(JOCV)になり、その後の長い海外生活を経てまた来月からマレイシアに戻ろうとしています。

そうだ、思い出したぞ!

狛江市の駅前の新聞専売所の2階に住んでいたころ、西日の当たる3畳では何とも暑くて、郷里の群馬への電話でその窮状をを漏らしたことがあったんです。

それを聞いて祖父が不憫がって「エアコン」を購入するお金をくれると言ってくれたのです。
新聞配達をしながら学校へ通うという目標も、初年で脆くも崩れそうだった時期なんです。

その時にフッと思い出したんです。

マカピーは甘えてないか?

そこで働く新聞配達の仲間たちは殆どが父親を亡くしていて、学費が軽減できる新聞社の奨学制度を利用しているのでした。

数日して祖父に電話しました。「心配かけてごめん。エアコンはやっぱり要らない。もう少し頑張ってみるよ」と伝えました。

暑い夏が来て、マカピーはいろいろなシーンを思い出だすのでした。

マカピーでした。
最後までお読みいただき感謝します。記憶の中の暑さって絶対温度じゃないよね

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