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『母の日』での会話 マカピーの日々 #1102

マカピーです。
ラジオ聞いて「そうか、母の日なんだ」と知り母に電話したのです。

群馬の母は4年前に寡婦となる以前から兄嫁(義姉)との関係が良くないのでした。


菓子作りの型

それは、多分に母のわがままな性格が招いたところが多いと思うんです。

母が緊急入院をしたときも義姉は自分の両親の世話もしながら献身的に入院に付き添ってくれました。

残念なことに父とほぼ同時に義姉の両親も亡くなってしまったのです。

すると母は何故かしらその分だけ集中して自分を世話してくれると思ったのか「子供が親の面倒を見るのは当然だよ」と公言してはばからなかったのです。


醤油樽と搾汁機(左)

それでも兄夫婦は、都合が悪くなると「気持ちが落ち着かない」と精神安定剤を飲んでしらばっくれて寝込む母に対しても我慢強く面倒を見てくれたのですが、母にも「これは内緒にしてね」と頼んでいる家庭内の話を聞かれたくない人や他人に話してしまうので、義姉も相当ガッカリしたのだと思います。

そして、最後は売り言葉に買い言葉なのでしょうか、母は自分から「そんなに私が邪魔だったら施設にでも何でも入れたらいいじゃない!」と騒ぐようになり、しかたなく地元の包括支援センターとも相談してアドバイスを受けたのでした。

幸い運動機能は落ちていないのですが、介護で世話をする側が疲れてしまっては元も子もないので、距離を置く時間を持つべきと「ショートステイ」でお互いの精神衛生状態を保つことにしたのだそうです。

それで母は現在2泊3日のショートステイを利用しているのですが、

母:「こんなところに来たくもないのに、放り込まれちゃってるんだよ!」
マカピー:「そうかい、でもどうしてそう思うの?」
母:「・・・本当は私が悪いんさ。私が謝ればいいんだけど、それが出来ないんだよ」
マカピー:「ふーん、気持ちが楽になるって分かってんだから義姉さんに謝れば?」
母:「それが出来れば、とっくの昔にしているわよ!」
マカピー:「そんなに謝りつらい事なん?」
母:「もういいよ。また気分が悪くなってきたから電話を切るね」

というのがよくあるパターンでしたが、「母の日」なので粘って話題を変える事にしました。


雨滴

それは近所にいる親戚の話からでした。

マカピーの家から嫁に出た祖父の伯母を「ネゴヤのオバア」と呼んでいたのですが、高齢で亡くなる前もよく実家にやってきた話でした。

当時マカピーはまだ幼く、家にはちゃんと自分の祖父母がいるのにこの婆ちゃんは一体どうして現れるのだろう?と不思議に思っていたのです。

母によると、近所に嫁いで年老いてもオバアは「実家」に戻って過ごすのが何よりの楽しみだったのだそうです。

やがてオバアにまつわる戦前の話になると母の話に拍車がかかります。

そして驚くのは実によく当時の人の名前がスラスラと出てくるのでした。

オバアの子供は幾人かいて、みな優秀だったけど出征して殆ど生還できず、その一人は学校の先生になって母の面倒も見てくれたそうです・・・。

「まったく、オヤゲナイ(可哀そう)な話さね。戦争はもうヨシ(終い)さ!」


酒徳利

母:「私も父親(つまりマカピー祖父)が戦争が始まる前に招集されて、家には男手がいなくなっちゃったんだよ」
マカピー:「そうか、おじいさんは将校だったんだね」
母:「私が惣領(三姉妹の長姉。男子三人は夭逝していた)で小学校5年生だった時に、父の召集令状(赤紙)が届けられてそれを受けとったのよ。その事は今でもよく覚えているけど、あれ、本当に赤紙だったかしら?」

その後、久々に母と1時間ほど長話をすることになりました。


昔の学校の手洗い場

今回の電話でいろいろ話をするきっかけになったのは以下の書籍です。マカピーはオーディブルで聞きました!


マカピーが最近聞いたタイトル

この著作は誰もが経験する認知症とその対応の仕方が語られています。「ボケ」と一言で済まされない事、どうしたら認知症の症状がある超高齢者と無理せずに付き合うのが良いのかという中に、今回の電話会話がありました。

過去の事は比較的よく覚えているので、それを引き出してあげるのはとてもいい刺激になり、症状を緩和るのだそうです。

マカピーでした。
最後までお読みいただき感謝します。話すのだったら遠距離でもOK

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