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またあの夏が来るのか・・・マカピーの日々 ♯1544 

割引あり

マカピーです。
マカピーにとっても、あの事故はとても衝撃的な事でした。

つまり1985年の日航機墜落事故で、マカピーの郷里の群馬の御巣鷹山山中に墜落したのでした。

しかもその事故の半年前、マカピーは群馬の友達と車で御巣鷹山のある上野村をドライブしてふもとを通過していたのです。

中学高校の同級生で地元で割烹を継いでいたトシちゃんの運転でした。

「マカピー、キミはマレーシアへ行ってしばらく日本とお別れするのだから今日は群馬のどこへ行く?」って事になったの行ったのです。

それでマカピーとシゲちゃんは中学生時代にヒッチハイクで訪れた不二洞というい鍾乳洞のある上野村を回ってみたいと伝え、そこに決まりました。

マカピー達の村は群馬の中央にあり、そこから上野村は思いのほか遠かったのでシゲちゃんが「今はこうして車で来れるけど、中学生当時はヒッチハイクで夕方にようやくたどり着いたんだよね。マカピーが計画しなかったら絶対来ようと思わなかったよ!」と言ってました。

中学生の頃の不二洞は電気配線もなく、たまたま一緒に訪れたご夫妻の懐中電灯があったので中を見ることが出来ましたが再訪した際は観光化が進んでいました。

少子高齢化社会をみすえて上野村でもきれいな山河を中心とした観光などの村おこしを進めている最中のあの航空機墜落事故が襲ったのでした。

あのドライブから半年が過ぎ、マカピーはボルネオ島北部マレーシアのサバ州の最北端の町Kudatから10㎞程離れた村に青年海外協力隊(JOCV現JICA青年協力隊)の村落開発事業の隊員として派遣されました。

ただし着任当時、州政府がパイリン・キティンガン氏率いるPBSクリスチャン政権交代があり配属先の人事異動などがあり混乱した事もあり実際の着任は1か月ほど遅れたのでした。

http://jams92.org/jamswp01/jamswp01_141.pdf

(1985年当時にも言及している山本 博之 京都大学地域研究統合情報センターの論説)


あれ、子供が黄色い花を集めているぞ

最初の頃は町に行ったら郡庁(Pejabat Daerah)の事務所に行き、情報収集に担当してくれた中華系のチョンさんに会って話をすることにしていました。

8月の半ばにいつもの通りチョンさんのところへ行くと、彼は「マカピーちょっとこれを見なさい」と彼が読んでいた中国語新聞をマカピーに広げて渡しました。

彼は日本人はある程度中国語を理解するのを知っていたのでした。

「え、・・・日航機墜落事故!」

マカピーの眼に大見出しが飛び込んできました。

「事故は・・・一昨日の8月12日だけど・・・え、群馬県に墜落しんだ! チョンさんJAL機はボクの故郷にある山に墜落しちゃったんだよ!」

「500人以上が亡くなったという事だね。I am sorry・・・」

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