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知恵袋やーい!マカピーな日々#0787

マカピーです。
昨年「お散歩おじさん」が突然亡くなってから時々思い出すんです。


マカピーの知恵袋的存在だった「お散歩おじさん」は実に色々なことをよくご存じでした。

会食などでも、話題につてスマホで調べながらではなく、伝えるべき情報をさっと脳裏から取り出せる技には敬服していました。

そのお散歩おじさんはマカピーの目の前からいなくなったのでした。

時々マカピーは猛烈にさみしく感じ、気持ちのどこかであれこれと「お散歩おじさん」に尋ねているのでした。

今後マカピーは誰に聞いたらいいんですか?

お散歩おじさんは幼少のころから成績が良かったそうです。
ただ幼い頃から肥満児だったので、九州でも当時は珍しい事から、当時近所では「『肥満』を知りたかったらあそこの家に行けば見られるぞ!」と残酷なことをうわさされていたと語っていました。

食べる事は好きでしたが、そうした体質だったと思います。

ボランティアに興味があり、性格的に一生懸命にのめり込んでしまう姿には、周囲からも注意されるほどだったと二人で飲んだ際に教えてくれました。

大学院から国土省の国家上級公務員(技官)として活躍しさらに工学士の資格を取得しながらも、海外で技術協力に関わる道を選んだのは、今まで興味のあったボランティアに近い場所に身を置きたかったからだったからでした。

肥満児だった「お散歩おじさん」は成人しても体質的に100㎏を超えてしまうのですが、海外勤務の条件としてウエイトコントロールを強いられ体への負担も大きかったかと思います。

100㎏超から85㎏まで体重を落とさないと3度目の海外勤務できないと分かると、ウエイトコントロールをするのですが自分でコントロールのメニューをつくり、体力を落とさずに体重だけ落とす「ライザップ」のような日課をこなしていました。

その最中、カンボジアで一緒にいたころの仲間が集まった際に彼の注文したのは豆腐と冷やしトマトだけだったのですが、豪快に笑っていました。

「デブには国際協力ができないっていうのか!」

マカピー夫婦は帰国の度に「お散歩おじさん」と会食をしてはその会話を楽しんでいて、一度ベトナムには家族を連れて遊びに来てくれました。

海外で仕事することで、いわゆるエリートコースを外れた「お散歩おじさんは」国交省から出向させられ定年退職すると、九州に暮らす母親の面倒を見ながら乞われて会社社長をしました。
その際にはマカピー夫婦は尋ねてゆき、一緒に長崎までドライブしたり博多の街をめぐりながら、次は「山笠」を経験しようって約束していたのです。

面倒を見ていた母親も亡くなり、九州を去るのですがそこのアパートには引きこもり状態の次男が残り、神奈川の自宅にはミュージシャンを目指していた長男もアニメイラストレータを辞めた長女も都心のマンションに同居していて働きに出る様子はなかったのでした。

お散歩おじさん妻は、ベトナムに来た際に「マカピーさんたちはうちの主人と会話を楽しんでいらっしゃいますね。私は彼には全く興味がないので、会話を持つことさえないので、皆さんのほうが私より主人の事をよく知ってますよ」と聞いたとき、とてもガッカリして、思い出したことがありました

そうだ、彼の最初の海外赴任で同行した妻は、現地の日本人社会の人間関係に疲れ果ててしまったのでした。

それからはカンボジア(そこでマカピー達とであった)と再度の最初の赴任国滞在の際には日本から出ることはありませんでした。

彼女の言い分は「彼は自分の仕事をして楽しんでいたかもしれないけれど、私たちはその犠牲になったから今の状況はその報い」だったのです。

味わいある「お散歩おじさん」に対して妻が執拗に責め、独立しない子供たちをかばい続けた暮らしだったのかしら?

最近神奈川から都心の一等地のマンション住まいになってもパラサイト化した子供たちは生業をもたずに同居しつづけていました。

その一方で、お散歩おじさんは会社役員的な仕事をするようになったから「いつでも時間が取れたら一緒に旅行しよう」って「山笠」旅行の案を検討していた矢先に突然逝ってしまったのです。

マカピーは一緒に海外勤務につきあってくれたマカピー妻と息子たちにあらためて感謝するのでした。

マカピーでした。
最後までお読みいただき感謝します。さて次のマレーシアはどうなるかな?



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