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自分がオタクじゃないのかそうなのかの答えが出そうで出ないような

ストレートな感想は感動が極まって仕方ない。
「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を観てきた。
エンドロールで流れる「One Last Kiss」「Beautiful World」がなんとも言えない気持ちを誘う。
ひとつ飛ばして向こうにいた若い男の子は鼻をすすって泣いていた。
25年か。年代を飛び越えてすげぇなと感じる。

はじめに言っておくと普段ほとんどアニメを観ずに知らずに生きている。
新劇場版の「序」「破」「Q」は去年観たくらいのもので、前作から9年もの長い年月「いつやるんだ!本当にやるのか!つーか終われるのかよ!」と続編に野次を飛ばしながら待っていたようなタイプではない。
そんなもんだから酷評すらされていた作品を観るわけもなく。
劇場予告が出始まった頃にいよいよ最後をやるのかと思ったのがきっかけで、且つ去年はめちゃくちゃ時間があったんで一気観をした。
コロナ禍は観る作品の幅が増えるのです。



旧劇場版もとい25話と最終話はリアルタイムで観に行った。
当時、比較的親しかった同級生から「これを観ろ!」と半ば強制的にテレビ東京で放送していたものを録画していたVHSを渡されたのがきっかけだ。
住んでいた福島のいわき市は何故か高台の家でアンテナを伸ばすとテレビ東京が観れた。ギルガメッシュナイト万歳。
ガンダムをはじめ、戦隊・ロボットものが禁止だった我が家にも関わらずまとめてアニメを観るのが新鮮で「なんなんだこれは!」の衝撃が凄かった。
鬱屈で陰鬱で拗らせ系で年も近いシンジに自分の世界を重ねたりもした。
ゴジラやウルトラマンシリーズはOKだったので未だになんで他のアニメを観ていなかったのかよくわからない。
もしかしたら単に興味がなかっただけなのかも知れない。
きっと親として知らずと東宝に円谷プロがボーダーラインだったんでしょう。
そのくせ映画はスプラッタにゴアもOKだったから本当によく分からない。
大人になってからはそれでも有名なアニメ作品(映画)は観るようになった。
AKIRAメモリーズ大友作品今敏監督作品は大好きだ。
今思い出したけれど、何本目か観ている時に「おかーさーん!お兄ちゃんがオタクになったー!」と妹に言われたのは子供ながらにショックだった。

それまで観ていた漫画とかアニメって水戸黄門的単純な王道パターンのモノしか知らなかったからビデオの貸主に色々と教えてもらうことになる。
NHK BSで夕方にやっていてた「ふしぎな海のナディア」も庵野監督作品だと教えてもらった。毎回観ていたけれど内容は全く覚えていない。
そいつの家に行かせてもらうと今はもう廃刊になっているけれど“アニメージュ”という雑誌が本棚にズラッと並んでいた。
そこには「風の谷のナウシカ」が連載されていて「映画だけじゃなかったんだ」ということを初めて知ったのもこの頃だ。
親切なオタクはアニメを知らないオレにマウントを取ることもなくバカにもしなかった。
こちらの世界へおいでよと誘うが如く、小出しに小窓を開けてくれた。
そこで「エヴァのあれはなんなんだ?あのシーンってなんだ?」と考察ってやつを自然とやっていたから不思議なもんです。
特にアニメを知らないから余計に気になる。
答えがないあの世界に没頭していた。
自分なりの答えを見つける作業はこの頃からだったんだなと改めて思う。
後に旧劇場版を観てアスカの「気持ち悪い」で確実に自分の中でエヴァは終わった。



村上は春樹じゃなくて龍。
グロテスクで淫靡な世界が大好きで、今でもドラッグやSMなんかの類を好んで読んだり観たりするのもその頃からの地続きなんだろう。
観てはいけないものを指の隙間から覗いているドキドキ感がある。
江戸川乱歩に始まり現代小説まで探しては読み漁る中学生だった。
「トパーズ」からの続編「ラブ&ポップ」の映像化にはワクワクした。
援助交際がテーマの小説だ。
これが庵野監督作品と映画のエンドロールでエヴァの監督はアニメだけじゃないんだと知った。
次いで「式日」は劇場へ観に行った気がする。
社会人になった頃にエヴァ再構築、やり直しをやるとは知ったけれど「『序』はただのダイジェストじゃないか!」というあらぬ声も聞いていたから余計に観ることもないかなと、最早エヴァには数年前に区切りがついている。
そのはずなのに切っても離れなかったなのは、そう。パチンコだ。
ホールに響く「オォーン!」と初号機の声と共に通常図柄が昇格して、確変中のBGMで「残酷な天使のテーゼ」に脳汁がプシャー!と溢れ出す。
綾波・アスカ・ミサトさん図柄が並んで「暴走モード突入です!」なんて言われた日には心の底から「ありがとう」と言いたくもなるもんです。
めっきりやらなくなったので最近の台は分からないけれど、隙あらばやっていた。
なのでアスカがなんで眼帯をしてるのかが分からなかった(これについては今回謎解きがされる)。
デザイン改正?というかマリってメガネの子は誰?のレベル。
要はパチンコで勝てばいい、ただそれだけだ。
ちなみにいくら使ったのかは定かじゃない。



去年に新劇場版を一気観して、あの頃もの凄く好きだった気持ちがなんだか蘇ってきた。
令和の今に10代の自分が重なる。
公開の間が短いスパンとはいえ劇場で観ていた人たちにそういうことねと若干気の毒な気もした。
リアルタイムで観ていたならば自分でもきっと、あーでもないこーでもないと話をしたかったはず。
新劇場版になってからは宇多田ヒカルがエンディングだったのも去年知った。
もちろん大好きなので曲は知っているけれど、「これだったのか!」という謎解きがあったのも大きい。
他にも大作があるんだろうけれどアニメ食わず嫌いというわけではなく、チョイスする脳がないので誰かに言われないと分からない。
心持ちとしては鬼滅の刃を劇場で観たけれどもはや霞んでいる。

映画考察が既出で沢山あるけれど、似たような感覚のものはあまりなかった。
アニメ関連でよく見かける風潮で作者や監督を呼び捨てするのが店員に横暴な態度を取る「金を払えば客だろ精神」みたいで好きではない。
避けてしまうのはそんな斜に構えた人を多く感じてしまって、1に対して100で返すようなマウントを取らなかったビデオの貸主のようなタイプにはあまり出会ったこなかった(もちろんいる)。
近くにそんな人がいたら今でこそ仲良くなれる気がする。
海千山千、提供元にはリスペクトを込めたいスタンスだ。

(このあとは内容を気にせず書く)



シン・エヴァは庵野監督に安野モヨコ先生の存在が大きくて詰まるところそこでまとめられるんじゃないかとさえ感じた。
第3の村の図書室のシーンに「しゅがしゅがるーん」のポスターがあって、それを観てハッとした。
監督自体がロジカルな作り込みでサウンドトラックにも意味をなすものなのでひとつひとつに意味が含まれているから論争が起きる因なんだろう。
だから答えは分からないけれど、あくまで個人の主観でのはなし。
ざっくり言うと「シンジ=ゲンドウ=庵野監督」の集大成だった。
「ふたりでひとつ」が見え隠れしていて「ひとりじゃない」という答えがいくつも散りばめられている。
例えばラストには親子の対峙がある。
スターウォーズのルークとダースベーダーことアナキンのシンプルなイデオロギー対決を彷彿する。
どこの家庭でも親子でオーバーラップする生き方が摩擦を産む原因なのかも知れない。
そういえば世界規模での親子喧嘩ならば範馬刃牙勇次郎以上の親子喧嘩だとコミックスの感想で聞いたことがあったけれどまさしくそれだった。
第3の村の原体験や後半1時間で怒涛のように伏線回収やエンディングに向けて疾走する中で各キャラクターの内面を精神世界で深掘りするシーンがある。
その中でも碇ゲンドウが語る告白?独白?のシーンは庵野監督の想い全てな気がした。
孤独だった事、ピアノのくだり、ユイ(奥さんの安野モヨコ先生に重なる)との出会い。
全部当てハメてみると自分で合点がいく。
「Q」公開の後、庵野監督の鬱状態からの脱却は壮絶だったんだろう。
そんなところも吐露している風に感じた。
ガイウスの槍でユイと13号機諸共エヴァ全機を破壊するシーンなんて過去の清算のなにものでもない。
「さらば、全てのエヴァンゲリオン」は本当に文字通り終わらせにきた。
さよならはまた会うためのおまじない
ヤシマ作戦の「さよなら」とは意味が違う。
やり直しの意味が込められた美しい言葉に変わった。

95年に始まった平成アニメが時間は伸びたけれど令和という時代で終結。
駅で「さぁ行こう」と手を差し出したシンジと階段を駆け上るマリが新時代突入への一歩を描いているかのように。
ゴジラ、エヴァンゲリオンときてシン・ウルトラマンが公開される。
ラストの実写が伏線だったりするのかしないのか。
キリスト教からの引用が多い中、ウルトラマンにも通ずるところがあるし(ゴルゴダ星というのがウルトラマンAで出てくる)気になるし間違いなく観に行くだろう。

ここまで書いて分かった。
妹が言ったあの言葉は間違いじゃなかったのかも知れない。
のめり込みやすい性格はきっとオタク向きなんだろう。
好きなものはとことん好きになろう。
パチンコでマヤが言う「パターン青、使徒です!」くらいに期待度は薄く、何時ぞやビデオを貸してくれたかつての友のように、誰かの小窓からATフィールドをぶち破って何かを届けられるようなオタクでありたい。
しばらくは宇多田リピートが続きそうだ。

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